和歌山市は和歌山県の西北部、紀の川の河口に位置し、北部は和泉山脈をもって大阪府泉南郡と境し、東部は本県那賀郡に接し南は海南市に隣りし、市の中央部を貫流する紀の川本流は和歌山港に注ぐ、地勢は概ね平坦にして中央部の虎伏山、岡山の丘陵地を初め南部雑賀山系草山、亀山等の小起伏が僅ずかに市の高地を形造っている。
面積205.3平方キロメートル、東西29.0キロメートル、南北17.5キロメートル、現在人口凡そ368,000の商工業都市である。
本市は天正13年豊臣秀吉の吹上の峯築城に初まるが神話によると天地開闢の時諾再二尊天神の勅をうけ、おのころ島に天降って国土を生む時、大八州よりも前にまず温州を生むんだ、これ今の和歌山市加太苫ヶ島である。また大国主命は出雲の国で八十神のために苦しめられ当国に逃れて来た。所在の命を祭っているのは其の縁であると言う。いわゆる神世には和歌山市附近の地は御気持の命、世に領知し、熊野の地は高倉下の命、西の方を領し、丹敷戸畔が東の方を領するも、神武天皇東征の時河内国孔舎衛で長髄彦と戦って利あらず、当国に廻幸せられ、長髄彦のために痛矢ぐしを被むられた五瀬の命が「負賤如之手乎死」と男健して崩じた男の水門は今の市内湊辺にあるという。
和歌山の地名の起源については、諸書その説を異にしているが、古くは若山と書し、又和歌山とも記したが元禄(1688)中に若山の文字に定め、後また和歌山に改めた。城地附近はもとの雑賀荘に属し、名草郡岡村、今治村、鷺の森、釘貫、徳田木、四日市、海部郡湊村、吹上等の村落が点在していたが、中央吹上の峯に城が築かれてから、漸次に開けて、村里の風を脱し、ここに和歌山の地名が初めて起り、天正13年岡山に城を築き秀長の居城とし後年和歌山の城と號す。
秀長岡山に築城したるは、此の地は紀の川口平野に位置して崛然隆起し、北に和泉山脈、南に藤白の連山があって、さながら屏障を列する如く態勢は地域に適していたからであろう。古昔有名なる名所吹上の浜の東にそばだつをもって吹上の峯と言い、玉吟家隆の和歌に「秋の世を吹上の峰の木枯に横雲しらむ山の端の月」とあるのがそれである。岩石突兀たる丘陵で遠くから望むとさながら猛虎伏臥する状があり、後年に至り虎伏山ともいう名を得たのであろう。
さながら江戸大名旗本屋敷の大路小路をしのばせる姿と変って、武氏の風格もまたお国武士の風を蝉脱し、勢い市町も面目を新たにして活気、横溢、殷賑旧時に倍するに至った。
当時、昌平河岸(今の湊片原通り)の繁盛は、寄合橋詰から南へ凡そ3丁ほどの間夜店、干店随間もなく建て連り、衆人の雑踏繁き有様であった。
旧幕時代には内堀から外濠までの内部はすべて重臣の邸地で、外郭の地は東部の岡、広瀬、北部の宇治、南部の吹上、西部の湊など士邸櫛比し、工商の居は北部の内町、東部の広瀬一部、新町、北新町、西部の湊一部にあった。その他士宅商屋の間雑する所も多かった。
官公衛のうち評定所は郭内今の9番丁にあり、代官所は13番丁にあり、東西町奉行所は今の元
町奉行町にあり仕入方役所は湊紺屋町にあり町方蔵、砂糖方、舟手所は伝法にあり、舟蔵は湊加納町および伝法にあり、米蔵は内郭、湊紺屋町、伝法等に散在し、習武場は岡山に牢獄は岡の谷に舟改所は湊下の町浜に、町会所は雑賀町湊会所は久保町浜にあり、時の鐘は岡山と本町5丁目にあり、而して市中に於ける宏壮なる建築は水野、安藤両家(丸の内)および三浦長門(丸の内)久野丹波守(小松原通1丁目)等大夫重臣の邸宅、老臣の下屋敷、寺院の類であった。
しかるに、明治維新の変革は全く旧制を破壊し、500,000ポンドの城下の壮麗を根本から覆滅して、社寺、衰微し、士邸荒廃して廃墟と化し、桑園麦圃と変じ、士族また多く離散流落した。
2年2月英断をもって藩主家禄を領知高20分1(凡そ現米10,000石)に限定、余は全て藩国の用度に宛てることとし、家老以下家臣全部の俸禄を収めて無役高と定め、従前知高550石以上の者は全て高10石に付苞1俵ずつ、同550石以下切米25石までの者には均しく同50俵を給し、切米25石以下はこれまで通りとした。
而して政治府、公用局、軍務局、会計局、刑法局、民生局を設けて政治府に執政、参政各局に知局事、判局事を置き別に学政を執る職として学習館知局事、判館事、および藩家々事に服する家知事、家判事の職を置いた。
その任用は士庶民、貴賤を論ぜず、都鄙有才の者はすべてその選にあたるものとし、広く人才登用の途をひらき、門閥格禄の流弊を一掃したが、同時にこの時から無役の藩士に市在住居、農工商営業を其の意に任せて許可するなど、この改革はすこぶる時人の呆然たらざるを得なかったもので、天下に率先して維新の実績をあげ、大いに紀藩の名声を高からしめた。朝廷其の効を奏し(皇国御維新の目的を立て、、郡県の体裁を似て藩制改革候段、叡感被思召候)と褒章を賜はった。後年津田又太郎ご朝廷に召されたのは、この改革で認められたためであった。
また、此の年薩長土肥の4藩率先して封土私有を非とし、政令を一途に帰せしめんとして版籍奉還を乞い、270の列藩これに倣った。茂承もまた2月(惟うに王政復古の実、まことに茲にあり、故に臣亦謹んで版籍を上らんとす、伏して天裁を待つ)と奏請したが、6月に至って朝廷これを許し、公卿諸侯を華族に列し、新たに府藩県一致の制を立てて旧藩主を仮に藩知事とし、藩内文
武の諸政を掌らせた。ついで7月津田又太郎和歌山藩大参事に任ぜらる。
明治3年9月さきに定めたる藩制を改めて150,000石以上を大藩、150,000石以下50,000石以上を中藩、50,000石以下10,000石以上を小藩とし、各藩知事の朝集を3年1回として、正権大参事の内1名を滞京させ、議員として衆議院に出席させることにしたが、4年2月知事の家禄を制して、各藩5ヶ年平均現石の10分の1と定めた。即ち、和歌山の領知高は従来の555,000石中、藩屏に列せしめえられた安水両家の釆地を除いた残高481,200石で、その5ヶ年平均現石274,590余石であったから、知事茂承の家禄は27,459石であった。
ら明治4年まで紀州徳川氏がこの地を治したのは実に253年であった。
翌22年2月県令第17号をもってその施行期日を4月1日と定め、4月18日から20日にわたり、1、2、3級市会議員各10名を選挙し、5月1日7番丁高等小学校々舎で第1回市会を開いた。
この時、森懋議長に選ばれ、ついで市長候補の選挙を行ない。旧和歌山区長、長屋嘉弥太郎就任す。これ即ち本市初代市長である。
而して同年7月区役所を市役所と改め戦後の憲法の改正により市長公選となり公選初代市長に高垣善一氏が当選、氏は爾来連続4選其の職につくも遂に病没、其のあとをうけ宇治田省三氏市長となり現今に至る。
此の間昭和20年7月9日、10日の両日空襲により市内全家屋の凡そ6割余を灰燼と化しわずかに戦災をまぬがれたのは紀三井、雑賀崎、四ヶ郷、中之島、吹上等の一部で市の象徴として虎伏山頂高くそびえた和歌山城も見る影もなく焼失した。
市は此の戦災を機会に文化的、近代都市として再建すべく遠大な復興計画のもとに、本市の特異性を生かし実態計画の歩を着々と進める一方焼失した和歌山城の再建に着手昭和33年10月1日無事俊工爾来本城を和歌山市の象徴として全国有位の商工業都市として現在の発展を見るに至った。
今の旧市に於ける繁華地は昔等は紀の川の河口の海に囲まれた離れ島であったが、後海水漸次に退き本陸に接続するにいたった。此の当時の和歌山附近の地形は、紀の川の河口にあたる関係から堤防の備へ殆んどなかった為、出水ある毎に激流奔放決壊をほしいまゝにし地形の変転特に著るしいものがあった。古書によって察するに最も古い和歌
山市の地は、北に宇治、東南に岡の里がありその南に雑賀野、和歌浦、和歌があって此の一廓は、北と東に入海をひかえ本陸を離れた1つの島嶼であった。そして宇治の西北河口を紀の水門と言い水門を隔てゝ徳勒津、有真あり徳勒津の南に太田、津泰、大宅(オオヤケ)あり大宅の東南に亀山あり、亀山の東南に江南、津田浦あり、江南、津田浦は海浜の船着の地であった。
其の後本島の西海水漸次に退き落ちて浜面広濶となり風激しく浜砂を吹き上げ始めて吹き上げの名起る。関白頼通公永承3年(1084年)の記に(如登天山似向●嶺)とあるのを見ると地に高低があったのであろう。それよりやゝ後世の歌に、和歌の浦入江、玉津島入江など詠ずるのが少なくないがこれは、東方布引、紀三井寺、三葛の辺から玉津島の北、今の五百羅漢辺寺までを言う。
愛宕山、御坊山は中古尚海中の一小島で共に、西方ふもとに波されの岩があり、高松から井原町大出子辺に浜沿(ハマソイ)の字が遺っているのを見ても昔の地形を察する事が出来る。又、此の頃紀之川河道南に遷って有真、徳勒津の地一時に河中に没したがやがて河道埋れて老人島、松島、中之島の中洲が現出し、宇治以西も又、年々川から土砂を流出し海面から風浪をゆり動かして所々に砂土を集め自然に遠浅となって北島、鵜の島、狐島、前島、和田浜などが出来た。うち和田浜は明応の津波で滅亡した。
かくして、磯脇以来の地漸次海から遠ざかったが、梅原大年神社境内の岩の波されの跡あり、大納
西に退いて小二里辺広野となり、往古の吹上の浜はるか東方に隔絶した。又川筋年々に砂土を流出して二里ヶ浜の洲鼻長く突出してついに大浦辺が川口となったが、この川口又、土砂に埋もれて水流を阻む様になり又、出水に会して今の川口に決した。これが現今の地形である。
故えに大浦を古川口とも言い大浦に注ぐ水軒川を一名、古川とも言う。
村、紀伊村、川永村、山口村、和佐村、西和佐村、岡崎村、宮原村、東山東村、西山東村、
(海部郡)・・・雑賀村、湊村、雑賀崎村、和歌浦村、加太村、西脇野村、小倉村、等々。
前記の通り当時今の市部の中心と他は名草、海部の両郡に分かれていたが其の両郡が合併し海草郡と改む。
更らに明治22年市町村制実施にあたり和歌山を和歌山市とすると共に其後市勢の発展と人口の激増並び商工業の振興にともない、これら旧来の町村は全く融合して、その境界判別し難い情態となるに至り、統一ある企画のもとに和歌山市100年の大計を樹立する必要から隣接町村の合併はつとに問題になっていたが大正8年4月10日の市議会に於て、中の島、宮、宮前、岡町、雑賀、湊、和歌浦各町村の合併に関し調査することを議決し、
大正10年11月1日先ず、湊村の一部築地橋から水軒川中央を南方雑賀村界に達する線から東を市域に編入し、引続き各町村と協議した結果、雑賀宮両村は順調に進捗し昭和2年4月1日、雑賀村を合併、一方宮村合併は内務省の方針等から一時難航したがその後交通機関の発達、産業の発展および都市計画区域編入等のためその機運促進せられ、昭和2年11月合併を実施した。
其後、都市計画区域設定と共にさらに隣接町村合併が必要となり、昭和8年6月、鳴神、四箇郷、中之島、岡町、和歌浦、雑賀崎、宮前の1町6箇村を市部に編入、引続き昭和15年4月、湊、野崎、三田の3町村を市域に編入し、同17年7月松江、木の本、貴志、楠見、4ヶ村を廃して市域に加えた。
更に、戦後の30年1月、岡崎村、西和佐村、同31年に西脇野、安原村、東山東村、西山東村、同33年に有功村、直川村、川永村、小倉村、同年7月加太町、同34年山口村、紀伊村を市域に編入し現在の行政区画の形成を見るに至った。
(註・木材業と関連性の深い地名)
(湊) 紀之川の河口に位置するをもって此の名あるも古事記に紀国男水門とあり又、日本書紀には雄の水門、神功紀、広神紀には紀の水門とある。紀の水門は広く此の辺から西方は磯脇までの入江を言い男の水門は専ぱら此の地を言う。後世海水西に退き落ちて平地となり人家密集するところ早く市部に編入せられるも、田畑多き北西部及び紀之川対岸を海部郡湊村と称し当時湊村には御膳松、今福、砂田、入屋敷、中洲、鼠島、薬種畑、湊御殿、土佐殿町、舟津、砂山、桃畠、東の坪、中の坪、北の坪、本宮、三間割、四間割、葭原、新堤、西の坪、青岸などがあり、その面積広く御膳松、中洲は紀の川の対岸にあるため、これを外浜と言い往時は和田浜の大聚落のあった所である。
(湊御殿) 徳川最初の藩主頼宣が入封して以来、築地橋から魁橋にいたる間に藩主の御殿があり、和歌山城から西へ一直線のところで今の県庁前への小松原通り南裏に通りがありこれを(お通り丁)と称していた。つまり城から御殿へ通う道であったので湊御殿の名が残って居る。
(湊御膳松) 紀の川口の河口に位置し、紀州藩祖南竜公頼宣この土地で食膳を供した事があるので此の名が残る。
(湊薬種畑) 紀州藩の薬草園があったので薬種畑と言う。
(中の島) 往昔、此の辺一帯は入海の水底であったが、後海潮南に退いて洲渚を生じたので中の島の名起る。慶長1596年頃まで村中になお塩浜あり天保1830年頃その住民市域の戸籍に入いり土地のみ中之島村領として土税を納めたと言う。
(手平) 此の地域は古郷名を大宅(オオヤケ)と言い上古公税を蔵める倉を所々に設け屯倉(ミヤケ)と言ったがその後、元和中(1615年)手(て)の平(ひら)村と訓し後手平村となる。古来は熊野街道の要衝として繁唱した。
(宇須) 往昔は、南方塩屋からこの辺一面は海であったが、後入江の海水南に退き落ちて一条の雑賀川となったこと祥(あき)らかに地形の変形である。現に浜沿いの地名遣っている。又、宇須は昔は(宇津とも書く)名も宇須即ち内の義で海川など外にあり、その内にある意と説くものもあるが、紀伊風土紀によると古昔は繁唱した土地で宇須千軒の俚言があるがその後、すいびして天保(1803年)時代は戸数わずか70戸にすぎず、藩の小史蛋徒の居地であった。そのうち井原町は慶長年間若州井原郷の人次第に移住して井原町となる。
(小雑賀) もと海部郡雑賀荘に居す。元来、雑賀荘の諸村は殆んど、雑賀川以西にあったが、ひとり此の地のみ川東にあるので此の名称がある。当時、入海に面して塩浜多く宇須との間に渡船を通じたが、明治11年今の如く橋を架した。
(久保、小野町) 久保町は一名、公方町と呼び公家方が居住したので此の名が起こる。この町に接して浄土宗寺院海善時があり、開山喬海上人は将軍足利義値公の一族であるため、その緑故で公家方が阿波から当国に来たり。この辺にしばらく滞在したとのこと、三丁目にオミキ坂、四丁目に城山の小名がある。尚、小野町久保町等の西浜側巾50メートル長さ3~400メートルの地は慶応年間(1865年)紀藩が難民求済のため築造したもので、以前は南方牛町の浜まですべて西河岸と言った。又、以上2町及び小野町の東、内川縁の地は藩時湊片原あるいは昌平河岸と唱へ繁唱雑踏の地であった。