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和歌山木材史タイトル

和歌山市の沿革概要

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和歌山市は和歌山県の西北部、紀の川の河口に位置し、北部は和泉山脈をもって大阪府泉南郡と境し、東部は本県那賀郡に接し南は海南市に隣りし、市の中央部を貫流する紀の川本流は和歌山港に注ぐ、地勢は概ね平坦にして中央部の虎伏山、岡山の丘陵地を初め南部雑賀山系草山、亀山等の小起伏が僅ずかに市の高地を形造っている。
面積205.3平方キロメートル、東西29.0キロメートル、南北17.5キロメートル、現在人口凡そ368,000の商工業都市である。
本市は天正13年豊臣秀吉の吹上の峯築城に初まるが神話によると天地開闢の時諾再二尊天神の勅をうけ、おのころ島に天降って国土を生む時、大八州よりも前にまず温州を生むんだ、これ今の和歌山市加太苫ヶ島である。また大国主命は出雲の国で八十神のために苦しめられ当国に逃れて来た。所在の命を祭っているのは其の縁であると言う。いわゆる神世には和歌山市附近の地は御気持の命、世に領知し、熊野の地は高倉下の命、西の方を領し、丹敷戸畔が東の方を領するも、神武天皇東征の時河内国孔舎衛で長髄彦と戦って利あらず、当国に廻幸せられ、長髄彦のために痛矢ぐしを被むられた五瀬の命が「負賤如之手乎死」と男健して崩じた男の水門は今の市内湊辺にあるという。
和歌山の地名の起源については、諸書その説を異にしているが、古くは若山と書し、又和歌山とも記したが元禄(1688)中に若山の文字に定め、後また和歌山に改めた。城地附近はもとの雑賀荘に属し、名草郡岡村、今治村、鷺の森、釘貫、徳田木、四日市、海部郡湊村、吹上等の村落が点在していたが、中央吹上の峯に城が築かれてから、漸次に開けて、村里の風を脱し、ここに和歌山の地名が初めて起り、天正13年岡山に城を築き秀長の居城とし後年和歌山の城と號す。
秀長岡山に築城したるは、此の地は紀の川口平野に位置して崛然隆起し、北に和泉山脈、南に藤白の連山があって、さながら屏障を列する如く態勢は地域に適していたからであろう。古昔有名なる名所吹上の浜の東にそばだつをもって吹上の峯と言い、玉吟家隆の和歌に「秋の世を吹上の峰の木枯に横雲しらむ山の端の月」とあるのがそれである。岩石突兀たる丘陵で遠くから望むとさながら猛虎伏臥する状があり、後年に至り虎伏山ともいう名を得たのであろう。

(築城後の和歌山)

天正13年豊臣秀吉当国を統一して弟秀長に附た時、この地が最も築城に好適するのを見て、みずから縄張を命じ、藤堂和泉守高虎、羽田長門守一庵法師普請を奉行して、急ぎに急いで工程を進めた結果年内に本丸、二の丸の土工を終ったと伝えられている。
翌14年1月から15年にかけ秀長の城代桑山修理亮重晴在城し、はじめて若山または、和歌山の城としたが、この時釘貫村を郭内にとり入れ、その人家を今の北町に移し、郭外伝法から今の築地まで、東西に堀川を開鑿して紀の川、大門川の水を連絡させ外濠とした。しかし浅野氏時代の修造で内堀、総堀、石垣など漸次に備わり、又徳川氏が入って元和7年(1621)城郭大改修が行われた。
徳川氏が、和歌山城に入封したのは元和5年8月13日であった。
同年夏将軍徳川秀忠は弟中納言頼宣以下諸侯を従え上落したが頼宣の傳、安藤道次を召し「紀伊国は南海に突出して西、阿淡を制し、北は京畿をひかえ東は和勢と連って、西南第1の要衝であるから至親の者に守らせたいと思う、中納言は少年であるがまことに其の人である。しかし駿府は父家康遺命の封国であるから、遺命に違うとて心をのこし、恨みを含まれるようでは国替の儀を行い難い汝よくこの意を諭せ」と直次に伝う、しかして道次其の旨を頼宣に伝えた。頼宣曰く「すでに一身を国家に委ねている、如何で駿府に眷戀しよう、謹んで台命を奉じ、上国、西国鎮守のこと随分駑鈍をつくさん」と復命、秀忠大いに悦び、7月15日浅野長晟を安芸、備後に移し、紀州に勢州の内を加えて555,000石を与えた。しかして、頼宣8月13日、安藤道次、水野重仲、久野宗成三浦為春等を従えて和歌山城に入った。これ即ち紀州徳川氏の始祖南竜公頼宣である。爾来第14代茂承まで実に250有余年間当国を治めた。
 

(徳川公在城時代の市勢)

  築城以前の旧市域は東に岡、北に宇治、鷺の森、釘貫、徳田木、四日市、西に湊、南に吹上の小聚洛があるのみで、人煙稀薄であったが、天正13年和歌山城の築営成るにおよび、釘貫村を郭内にとり入れて、その民家を城の正北、今の北町に移し、郭外東西に堀川を開さくして西方の伝法から紀の川の水を導き、東方鈴丸川の水を通じてソトボリとするにいたり。広瀬通りを、細工町、三木町、堀詰等の町々漸次に生れ出た。ついで浅野氏本国を領した時、広瀬口を大手と定め、慶長6年(1601)町割を決行して市カクを改易し、商買工人の四方から集まり来る者多く北方城之口まで広廓した。後元和5年徳川頼宣入国してさらに大手を北方一の橋に改め、京橋門の北に通衢を開いて本町とし、しばしば市●(?)寺院を移易して各々その便に就かしめたが、また城下区域を拡張して東は広瀬川を渡って新内(あろち)、中之島両村の地に亘り、新市街を作って新町と名づけ、北は鈴丸川を越えて中之島村領の一部にかけ北新町を開いた。爾来市画は次第に膨張して嘉家作り駅にいたる北部先ずひらけ、ついで南部西南部も市町を形成して、古昔浜千鳥の啼し音に冴えた吹上の浜の月も今は家より出でて家に入る風情とかはった。
  徳川氏10代治宝の時、従来和歌山市町の質素な田舎風なるを嫌い、かくては天下3藩の城市にふさわしくなからずとして、これまで草門、土塀、玉垣をめぐらして隘陋であった士邸を海鼠壁、長門屋の壮麗秀美に改めさせたため、ここに城下街は

 

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さながら江戸大名旗本屋敷の大路小路をしのばせる姿と変って、武氏の風格もまたお国武士の風を蝉脱し、勢い市町も面目を新たにして活気、横溢、殷賑旧時に倍するに至った。
  当時、昌平河岸(今の湊片原通り)の繁盛は、寄合橋詰から南へ凡そ3丁ほどの間夜店、干店随間もなく建て連り、衆人の雑踏繁き有様であった。
  旧幕時代には内堀から外濠までの内部はすべて重臣の邸地で、外郭の地は東部の岡、広瀬、北部の宇治、南部の吹上、西部の湊など士邸櫛比し、工商の居は北部の内町、東部の広瀬一部、新町、北新町、西部の湊一部にあった。その他士宅商屋の間雑する所も多かった。
  官公衛のうち評定所は郭内今の9番丁にあり、代官所は13番丁にあり、東西町奉行所は今の元

 

町奉行町にあり仕入方役所は湊紺屋町にあり町方蔵、砂糖方、舟手所は伝法にあり、舟蔵は湊加納町および伝法にあり、米蔵は内郭、湊紺屋町、伝法等に散在し、習武場は岡山に牢獄は岡の谷に舟改所は湊下の町浜に、町会所は雑賀町湊会所は久保町浜にあり、時の鐘は岡山と本町5丁目にあり、而して市中に於ける宏壮なる建築は水野、安藤両家(丸の内)および三浦長門(丸の内)久野丹波守(小松原通1丁目)等大夫重臣の邸宅、老臣の下屋敷、寺院の類であった。
  しかるに、明治維新の変革は全く旧制を破壊し、500,000ポンドの城下の壮麗を根本から覆滅して、社寺、衰微し、士邸荒廃して廃墟と化し、桑園麦圃と変じ、士族また多く離散流落した。
 

(明治維新の改革)

  明治元年(1898)正月14日、紀尾水3藩附属5家の輩、以後藩屏の列たるべしとの朝令があり、紀藩では安水二家がその附庸を離れるに至ったが、2月さらに諸藩を制して草高400,000石以上大藩400,000石以下100,000石以上を中藩100,000石以下を小藩と定め、微士、貢士の制を設けて下級の議事官とした。微士は朝廷の召人で藩に関係することが少ないが、貢士は藩論を代表する議事官で、その進退は藩主に一任し定員大藩3名、中藩2名、小藩1名あって年限がない。この時紀藩が選出した最初の貢士は横井鉄叟、津田兵弥、本居中衛の3名であった。ついで10月従来旧幕府から諸大夫を受領していた家臣の位記口宣案を返上した。
  これより先、明治元年4月諸藩国政を改革して一新の基本を立つべしとの令があり、引つづき10月府藩県3治に帰るべしと仰出らるるにおよび、紀藩は津田又太郎を挙用して藩制改革に専任させ、

 

2年2月英断をもって藩主家禄を領知高20分1(凡そ現米10,000石)に限定、余は全て藩国の用度に宛てることとし、家老以下家臣全部の俸禄を収めて無役高と定め、従前知高550石以上の者は全て高10石に付苞1俵ずつ、同550石以下切米25石までの者には均しく同50俵を給し、切米25石以下はこれまで通りとした。
  而して政治府、公用局、軍務局、会計局、刑法局、民生局を設けて政治府に執政、参政各局に知局事、判局事を置き別に学政を執る職として学習館知局事、判館事、および藩家々事に服する家知事、家判事の職を置いた。
  その任用は士庶民、貴賤を論ぜず、都鄙有才の者はすべてその選にあたるものとし、広く人才登用の途をひらき、門閥格禄の流弊を一掃したが、同時にこの時から無役の藩士に市在住居、農工商営業を其の意に任せて許可するなど、この改革はすこぶる時人の呆然たらざるを得なかったもので、天下に率先して維新の実績をあげ、大いに紀藩の名声を高からしめた。朝廷其の効を奏し(皇国御維新の目的を立て、、郡県の体裁を似て藩制改革候段、叡感被思召候)と褒章を賜はった。後年津田又太郎ご朝廷に召されたのは、この改革で認められたためであった。
  また、此の年薩長土肥の4藩率先して封土私有を非とし、政令を一途に帰せしめんとして版籍奉還を乞い、270の列藩これに倣った。茂承もまた2月(惟うに王政復古の実、まことに茲にあり、故に臣亦謹んで版籍を上らんとす、伏して天裁を待つ)と奏請したが、6月に至って朝廷これを許し、公卿諸侯を華族に列し、新たに府藩県一致の制を立てて旧藩主を仮に藩知事とし、藩内文

 

武の諸政を掌らせた。ついで7月津田又太郎和歌山藩大参事に任ぜらる。
  明治3年9月さきに定めたる藩制を改めて150,000石以上を大藩、150,000石以下50,000石以上を中藩、50,000石以下10,000石以上を小藩とし、各藩知事の朝集を3年1回として、正権大参事の内1名を滞京させ、議員として衆議院に出席させることにしたが、4年2月知事の家禄を制して、各藩5ヶ年平均現石の10分の1と定めた。即ち、和歌山の領知高は従来の555,000石中、藩屏に列せしめえられた安水両家の釆地を除いた残高481,200石で、その5ヶ年平均現石274,590余石であったから、知事茂承の家禄は27,459石であった。
 

(廃藩置県)

同4年7月、さきに府藩県一致の政を行なうたが因襲の久しきその名あってその実挙らず、よって更に廃藩置県の詔命を下し、各藩知事を諭してその職を罷めさせた。ここに於て和歌山藩を和歌山県とし、藩庁を県庁と改称、藩知事茂承退いて仮に旧大小参事に権の事務を執らせた。
  この時旧紀州藩領は、和歌山、田辺、新宮の三県に、旧高野寺領は五条、堺両県に分轄せられたが、4年11月和歌山県は田辺、新宮2県を併合し、伊勢領を度会、三重の2県に、大和領を五条県に分属させた。
  翌5年さらに五条、堺、2県から、伊都、那賀両郡の旧高野寺領を収めると共に、南北牟?郡を度会県の管轄に移し、もって現今の和歌山県の行政区画を形成した。
  此の年の9月旧藩知事徳川茂承命により東京に移住したが、頼宣の始封元和五年(1619)か

 

ら明治4年まで紀州徳川氏がこの地を治したのは実に253年であった。
 

(和歌山区政)

  明治2年2月和歌山藩は従前の市町役人のうち町湊大年寄を廃し、貴属地に士族卒肝煎を置き、市井を三組に分割して、毎組1名ないし2名の市長(役料米20俵藩費)を任命したが、3年5月毎町年奇を罷め2ヶ毎に町役人1名を配置して市長に属せしめた。ついで4年6月戸籍法施行により改めて市井全部を29小区に分ち各小区に町役人1名を置き、市長に戸長を兼ねさせ、町役人に副戸長を兼ねさせた。同5年4月再び区画を改正し、貫属地をも含めて各草郡第一区(丸の内並に広瀬一円車阪から新堀1丁目まで)同第2区(内町並に東西宇治一円)同第3区(新町並に北新町一円、嘉家作り丁)海部郡第1区(湊一円但し、南は湊通丁2丁目、3丁目、小松原通1丁目)同第2区(吹上一円但し、新堀1丁目を除き北は小松原通2丁目)以上の5区とし市長、士族、卒、肝煎および町役人を廃して各区に、1区役所を設置、翌月大小区画制に改めて各草郡を第1大区、海部郡を第2大区としたが、同7年9月各区役所の名称を区会議所と改めた。
  其の後、明治12年1月郡区改正あり、市井5小区は海部、名草両群から分離し、和歌山区として独立せしめられ、翌2月和歌山区役所を仮に県庁内に開設し渡辺鉄心区長に任命さる。
 

(市制施行)

  明治21年4月法律第1号をもって市制町村制の公布あり、和歌山区に市制を施行せられることとなり、5月、小山漸、加藤杲、志賀楠之助、長谷川五郎等市制施行準備取調委員を命ぜられたが、

 

翌22年2月県令第17号をもってその施行期日を4月1日と定め、4月18日から20日にわたり、1、2、3級市会議員各10名を選挙し、5月1日7番丁高等小学校々舎で第1回市会を開いた。
  この時、森懋議長に選ばれ、ついで市長候補の選挙を行ない。旧和歌山区長、長屋嘉弥太郎就任す。これ即ち本市初代市長である。
而して同年7月区役所を市役所と改め戦後の憲法の改正により市長公選となり公選初代市長に高垣善一氏が当選、氏は爾来連続4選其の職につくも遂に病没、其のあとをうけ宇治田省三氏市長となり現今に至る。
  此の間昭和20年7月9日、10日の両日空襲により市内全家屋の凡そ6割余を灰燼と化しわずかに戦災をまぬがれたのは紀三井、雑賀崎、四ヶ郷、中之島、吹上等の一部で市の象徴として虎伏山頂高くそびえた和歌山城も見る影もなく焼失した。
  市は此の戦災を機会に文化的、近代都市として再建すべく遠大な復興計画のもとに、本市の特異性を生かし実態計画の歩を着々と進める一方焼失した和歌山城の再建に着手昭和33年10月1日無事俊工爾来本城を和歌山市の象徴として全国有位の商工業都市として現在の発展を見るに至った。
 

(往昔の地形と変化)

 

今の旧市に於ける繁華地は昔等は紀の川の河口の海に囲まれた離れ島であったが、後海水漸次に退き本陸に接続するにいたった。此の当時の和歌山附近の地形は、紀の川の河口にあたる関係から堤防の備へ殆んどなかった為、出水ある毎に激流奔放決壊をほしいまゝにし地形の変転特に著るしいものがあった。古書によって察するに最も古い和歌

 

山市の地は、北に宇治、東南に岡の里がありその南に雑賀野、和歌浦、和歌があって此の一廓は、北と東に入海をひかえ本陸を離れた1つの島嶼であった。そして宇治の西北河口を紀の水門と言い水門を隔てゝ徳勒津、有真あり徳勒津の南に太田、津泰、大宅(オオヤケ)あり大宅の東南に亀山あり、亀山の東南に江南、津田浦あり、江南、津田浦は海浜の船着の地であった。
  其の後本島の西海水漸次に退き落ちて浜面広濶となり風激しく浜砂を吹き上げ始めて吹き上げの名起る。関白頼通公永承3年(1084年)の記に(如登天山似向●嶺)とあるのを見ると地に高低があったのであろう。それよりやゝ後世の歌に、和歌の浦入江、玉津島入江など詠ずるのが少なくないがこれは、東方布引、紀三井寺、三葛の辺から玉津島の北、今の五百羅漢辺寺までを言う。
  愛宕山、御坊山は中古尚海中の一小島で共に、西方ふもとに波されの岩があり、高松から井原町大出子辺に浜沿(ハマソイ)の字が遺っているのを見ても昔の地形を察する事が出来る。又、此の頃紀之川河道南に遷って有真、徳勒津の地一時に河中に没したがやがて河道埋れて老人島、松島、中之島の中洲が現出し、宇治以西も又、年々川から土砂を流出し海面から風浪をゆり動かして所々に砂土を集め自然に遠浅となって北島、鵜の島、狐島、前島、和田浜などが出来た。うち和田浜は明応の津波で滅亡した。
  かくして、磯脇以来の地漸次海から遠ざかったが、梅原大年神社境内の岩の波されの跡あり、大納


言公任郷集、和歌の浦遊覧の和歌の端書に(笠木〈今の孝子峠〉より越えて言々、その夜は岸つらに宿りて)ともあり中古は栄谷の辺、尚川すそ入海の岸であった。又、東方も大宅から南の入海次第に埋没して中島起り、南に北出島、現出し陸地となる、これが中古の和歌山の地形である。
  其後、松島、老人島など河南の本陸に接し新在家、吉田、新内、の村落が出来、北島、孤島は河北に中の島は宇治に愛宕山は岡にそれぞれ接続して往古の入海は紀之川の支流の観を呈するに至ったが、川筋の有本から南に岐れるものが中の島を経て岡の東で広き瀬となり、岡の故、地一時河中に没したらしい、今の広瀬の地は後堤を築き南流を防いで始めて陸となったもので近世まで地を掘ると葦の根多く出る所や井戸水鹹味を帯びる所があったと言う。
  今の大門川は古昔、紀の川河道の遣ったものである。後海水又、南に退いて塩道、宇須、塩屋、中島、杭の瀬、田尻、小雑賀の村々現はれ皆塩浜あって、塩を焼いて生活したが海潮更らに退いて三葛、塩浜が起った。紀三井寺の西が後村の南州浜となり漁人皆、出島浦に集まった。又、和歌の浦は往昔から漁を業としたが、後これも出島浦に集まった。関白頼通公の和歌の浦遊覧記によると永承(1046)の頃まで入海であったが東方に堤を築いてはじめて田畑塩浜となり西北、和田浜の故地も又、陸となって松江と言う。この辺の地をうがっと浮石貝殻の類が多く出てくるのもそれ故である。
  北西では磯の浦、川口何時となくふさがり松は浜の長く南北に連るをもって二里ヶ浜と言う、海岸に添って南東の浜を小二里と言ったが海水益々

 

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西に退いて小二里辺広野となり、往古の吹上の浜はるか東方に隔絶した。又川筋年々に砂土を流出して二里ヶ浜の洲鼻長く突出してついに大浦辺が川口となったが、この川口又、土砂に埋もれて水流を阻む様になり又、出水に会して今の川口に決した。これが現今の地形である。
  故えに大浦を古川口とも言い大浦に注ぐ水軒川を一名、古川とも言う。
 

(“区制改革”と町村の合併)

  本市は明治初期には、和歌山と名草郡、海部郡の両郡あり、而して此の地区に所属するところは次の通りであった。
(和歌山)・・・吹上、湊内町、岡町、新町、北新町、
(名草郡)・・・宮村、鳴神村、四箇郷村、中之島村、岡町村、宮前村、紀三井寺村、三田村、松江村、貴志村、野崎村、楠見村、有功村、直川

 

 

photo 村、紀伊村、川永村、山口村、和佐村、西和佐村、岡崎村、宮原村、東山東村、西山東村、
(海部郡)・・・雑賀村、湊村、雑賀崎村、和歌浦村、加太村、西脇野村、小倉村、等々。
  前記の通り当時今の市部の中心と他は名草、海部の両郡に分かれていたが其の両郡が合併し海草郡と改む。
  更らに明治22年市町村制実施にあたり和歌山を和歌山市とすると共に其後市勢の発展と人口の激増並び商工業の振興にともない、これら旧来の町村は全く融合して、その境界判別し難い情態となるに至り、統一ある企画のもとに和歌山市100年の大計を樹立する必要から隣接町村の合併はつとに問題になっていたが大正8年4月10日の市議会に於て、中の島、宮、宮前、岡町、雑賀、湊、和歌浦各町村の合併に関し調査することを議決し、

 


photo 大正10年11月1日先ず、湊村の一部築地橋から水軒川中央を南方雑賀村界に達する線から東を市域に編入し、引続き各町村と協議した結果、雑賀宮両村は順調に進捗し昭和2年4月1日、雑賀村を合併、一方宮村合併は内務省の方針等から一時難航したがその後交通機関の発達、産業の発展および都市計画区域編入等のためその機運促進せられ、昭和2年11月合併を実施した。
  其後、都市計画区域設定と共にさらに隣接町村合併が必要となり、昭和8年6月、鳴神、四箇郷、中之島、岡町、和歌浦、雑賀崎、宮前の1町6箇村を市部に編入、引続き昭和15年4月、湊、野崎、三田の3町村を市域に編入し、同17年7月松江、木の本、貴志、楠見、4ヶ村を廃して市域に加えた。
  更に、戦後の30年1月、岡崎村、西和佐村、同31年に西脇野、安原村、東山東村、西山東村、同33年に有功村、直川村、川永村、小倉村、同年7月加太町、同34年山口村、紀伊村を市域に編入し現在の行政区画の形成を見るに至った。

(地名の由来)

(註・木材業と関連性の深い地名)
(湊) 紀之川の河口に位置するをもって此の名あるも古事記に紀国男水門とあり又、日本書紀には雄の水門、神功紀、広神紀には紀の水門とある。紀の水門は広く此の辺から西方は磯脇までの入江を言い男の水門は専ぱら此の地を言う。後世海水西に退き落ちて平地となり人家密集するところ早く市部に編入せられるも、田畑多き北西部及び紀之川対岸を海部郡湊村と称し当時湊村には御膳松、今福、砂田、入屋敷、中洲、鼠島、薬種畑、湊御殿、土佐殿町、舟津、砂山、桃畠、東の坪、中の坪、北の坪、本宮、三間割、四間割、葭原、新堤、西の坪、青岸などがあり、その面積広く御膳松、中洲は紀の川の対岸にあるため、これを外浜と言い往時は和田浜の大聚落のあった所である。
(湊御殿) 徳川最初の藩主頼宣が入封して以来、築地橋から魁橋にいたる間に藩主の御殿があり、和歌山城から西へ一直線のところで今の県庁前への小松原通り南裏に通りがありこれを(お通り丁)と称していた。つまり城から御殿へ通う道であったので湊御殿の名が残って居る。
(湊御膳松) 紀の川口の河口に位置し、紀州藩祖南竜公頼宣この土地で食膳を供した事があるので此の名が残る。
(湊薬種畑) 紀州藩の薬草園があったので薬種畑と言う。

(中の島) 往昔、此の辺一帯は入海の水底であったが、後海潮南に退いて洲渚を生じたので中の島の名起る。慶長1596年頃まで村中になお塩浜あり天保1830年頃その住民市域の戸籍に入いり土地のみ中之島村領として土税を納めたと言う。
(手平) 此の地域は古郷名を大宅(オオヤケ)と言い上古公税を蔵める倉を所々に設け屯倉(ミヤケ)と言ったがその後、元和中(1615年)手(て)の平(ひら)村と訓し後手平村となる。古来は熊野街道の要衝として繁唱した。
(宇須) 往昔は、南方塩屋からこの辺一面は海であったが、後入江の海水南に退き落ちて一条の雑賀川となったこと祥(あき)らかに地形の変形である。現に浜沿いの地名遣っている。又、宇須は昔は(宇津とも書く)名も宇須即ち内の義で海川など外にあり、その内にある意と説くものもあるが、紀伊風土紀によると古昔は繁唱した土地で宇須千軒の俚言があるがその後、すいびして天保(1803年)時代は戸数わずか70戸にすぎず、藩の小史蛋徒の居地であった。そのうち井原町は慶長年間若州井原郷の人次第に移住して井原町となる。
(小雑賀) もと海部郡雑賀荘に居す。元来、雑賀荘の諸村は殆んど、雑賀川以西にあったが、ひとり此の地のみ川東にあるので此の名称がある。当時、入海に面して塩浜多く宇須との間に渡船を通じたが、明治11年今の如く橋を架した。
(久保、小野町) 久保町は一名、公方町と呼び公家方が居住したので此の名が起こる。この町に接して浄土宗寺院海善時があり、開山喬海上人は将軍足利義値公の一族であるため、その緑故で公家方が阿波から当国に来たり。この辺にしばらく滞在したとのこと、三丁目にオミキ坂、四丁目に城山の小名がある。尚、小野町久保町等の西浜側巾50メートル長さ3~400メートルの地は慶応年間(1865年)紀藩が難民求済のため築造したもので、以前は南方牛町の浜まですべて西河岸と言った。又、以上2町及び小野町の東、内川縁の地は藩時湊片原あるいは昌平河岸と唱へ繁唱雑踏の地であった。

 

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