維新の改革によって吾が国の諸制度が改革されると共に林野制度も又多きく変った。
明治4年に民有林の伐採が自由になると共に山林家の伐採意欲が旺盛となり木材業を営まんとする者が急速に増加した。吉野材の流下が漸く盛んになり初めたのも此の頃からで、本市に於ては仲買業を開業せんとするものが相次いで増加を見るに至った。
続いて、翌5年土地永代売買の禁止が解除されて、土地の私的所有が認められ更らに明治6年には地祖改正条例の発布があり明治8年には土地官民区有分により山林の所有形態を定め、個人所有の明きらかなものには地券を交附し、民有地には地価を定めその100分の3を地租として年々納付する義務を負わせた。
こうした中に於て当時、山村民に最も大きな影響を及ぼしたものは地租改正であった。地租の改正には技術上種々な問題があり、これを敢えて強行したために、農民や山林所有者は、此の措置を不服として各地に不穏の空気がみなぎった。
一方、木材業に於ては伐採が自由になると共に木材業者が増加した事は前にものべた通りであるが、明治元年に制定された(商法大意)のうちで問屋株などを撤廃し藩政時代の木材問屋の営業上の特権を廃止し全面的に売買と営業の自由を認めたために一時、非常な混乱が巻き起った。
特に此の混乱は東京市場に多く見られた。この事は藩政当時に於ける木材需要の殆んどは東京市場であった事と当時、問屋は金融上の関係から荷主にたいし特権的な支配力を持っていたからである。此の頃、東京市場への主な出荷は新宮、遠州、尾張、三河、常陸、武蔵などがあったが中でも新宮材が最高であった。