て見ると西南戦役後は松材は大巾な値上りを見たが、日清戦争後は松材よりも杉材の上昇率が高い、これは一時、沈滞していた民間の建築需要は戦勝後の好況により急増した為である。 此の頃、本県の新宮市では、すでに機械挽製材所があり杉材の5分板から1寸板の生産に日夜多忙を極めた。一方、日本の木材業界では此の頃より清、韓2国を輸出市場とする動きが濃くなると共に満州や鴨緑江の森林資源の開発を目的とする計画や利権を得るための策動や清国木材市場の調査などが盛んに行われるに至った。 又、製材では木挽から機械挽製材所を設置せんとする気運が漸く盛んとなり各地方に漸次製材工場の設立を見るに至った。こうした折、明治30年初頭より早くも戦後の好況の反動が現われ、同年末には株価が暴落するところとなり再び不況が襲来した。 然し、翌31年日清戦役の賠償金が支払れついに通貨が膨張し経済情勢が逆転して株価と物価が騰貴し空景気の情態となった。 此の様な情勢が33年の上期頃まで続いたが、同年末には反動をきたし翌34年から恐慌情態となり、木材価格も又下落した。

3.日露戦争と製材業

此の恐慌が凡そ2、3年続く中に明治37年ついに日露戦争が勃発し木材業も軍用材を中心に再び増勢に転じたが、価格は日清戦争当時の様な値上りを見るに至らなかった。 これは戦勝後政府は直ちにデフレ政策を強行したためで、此のデフレーションが明治末期から大正3、4年頃まで続き、ために木材市況も長期にわたって下向の傾向をたどった。