一般製材も又活況をもたらした。

 此の当時の北洋材は樺太産材及び沿海州産材のエゾ・トド松で通称北海松と呼ばれた。 尚、明治38年の日露戦争の賠償として露領樺太の南半分(経度50度以南)が吾が国に割譲されるに及び政府は樺太庁を開設し、同島の開拓を急速に実施するに至った。当時同島の人口は僅か少数の漁夫が居住するに過ぎなかったが、樺太庁を開設するとすると同時に政府は島内産業の開発を重点に樺太材(エゾ・トド)の利用価値は製紙用パルプ原料であるとの見解から国内の製紙会社にたいし、広大な山林立木の伐採権を長期に且つ、安価に与えて、樺太への進出を誘致した。当時、わが国で大資本を持っていた三井糸の王子製紙、富士製紙、樺太工業を始め、その他の製紙会社は競ってパルプ材製紙興業を樺太島内に興した。

 当時の木材業界の実勢は、漸やく北海道材の伐採が緒についた位いの頃であったので、国内の木材業者は進んで遠く樺太の地に、冒険的な事業をやる必要がなかったから、樺太の山林には全く関心が払われなかった。然るところ大正年代に入いるとともに欧州の風雲は異状な緊張をただよわせ各国競って軍備の拡張に専念するところとなった。この様な事情から木材の需要も又、世界的に増大その影響はわが国にも次第に波及するに至った。

 こうした折、大正3年ついに第1次世界大戦が勃発、このため従来アメリカやスカンジナビア諸国から供給されていた包装木箱が輸入されなくなったのでこれらの木箱の貿易が、わが国に要求される事となった。

 当時の輸出の主なものはモミチェスト(木箱、モミは日本産の樅)仕向地はゴム箱はシンガポールへ、