水谷製材所(杉の馬場)中岡製材所(久保町)直川製材所(鼠島)白樫製材所(鼠島)竹房製材所(杉の馬場)中保製材所(北新5丁目)中敏製材所(加納町)の以上僅か八、九工場に過ぎなかった。 斯くの如く大正から昭和の初期に於ける本市の製材は北洋材と米材の入荷によって北洋材を主とする製材工場と米材を主とする製材工場とに色分けされ、これらの工場は何れも急速な発展を見るに至ったが、その反面内地材専門の工場は遅々として発展を見なかった。然しながら、昭和の中期以降より情勢は大きく移り変り内地材製材全盛時代が到来した。
即ち大正から昭和にかけて大量移入を見た北洋材は昭和8年の樺太林政の改革によって漸次減少するとともに米材の入荷も又減少した。 ここに於て内地材への依存度が急速に高まり、製函工場に於ては再び樅栂を求めるところとなり、其の生産量も減少、北洋材の一般製材業者は内地材に転換、米杉、米松の工場に於ては、板問屋に転業する者や転廃業する業者が相次いで増加した。米杉製材を最も早く手がけ、且つ其の生産量が最高であった亀嘉製材所が板問屋に転業したのも此の頃である。又、当時本市最大の設備を誇った川中組製材所も昭和12年遂に休業するに至った。
一方、此の頃吉野地方に於ては地場消費が増大し、地元に製材工場が増設せられた為に吉野材の流下量が年々減少し最盛期に7、800,000石の入荷を見た吉野材は僅ずか200,000石内外に激減。このような事情から仲買商の中には製材業に転業する者や、吉野材から四国、中国、九州材の旅材を移入せんとする業者が激増し、昭和9年から10年の最盛期には其の移入量は年間1,200,000石から1,500,000石に達した。