軍用材の供出制度が実施せられ、ために湊新橋地区の業者は他の地区の業者に比べ利を見る期間少くして木材統制時代を迎えるに至った。

 当時此の地一帯を湊何番地とも呼ぶも昭和17年10月の町名の改正によって湊御殿1丁目2丁目、3丁目の町名を附し、残余以南の地を湊何番地と称し現在に至っている。湊御殿の地名は藩主頼宣が入封して以来、築地橋から魁橋にいたる間に藩主の御殿が築造された故をもって此の地名が残り、湊通り丁の地名は御殿から和歌山城への通路であったためである。現在丸西商会や石井商店の所在する薬種畑は紀州藩の薬草園が此の地にあり。今も其の地名が残っている。尚現在湊地区の業者が自然的貯木場として最も多く利用している水軒川は昔時は紀の川の本流であったが、洪水の時奔流が岸を破り、青岸に流れ、もとの本流が変じて支流となり今の水軒川となった。故に水軒川を一名古川とも言い、河口を古河口とも言う。

  以上は大正初期から昭和15、6年頃までの地区別発達情況であるが尚此の年代に於ける工場名及び所在地製品の販路や、輸送方法、並び製品相場、取引方法等は次の通りである。

(三) 製材工場所在地 大正初期-同末期迄 築港鼠島地区

表

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