これ今の和歌山市加太苫ヶ島である。また大国主命は出雲の国で八十神のために苦しめられ当国に逃れて来た。所在の命を祭っているのは其の縁であると言う。いわゆる神世には和歌山市附近の地は御気持の命、世に領知し、熊野の地は高倉下の命、西の方を領し、丹敷戸畔が東の方を領するも、神武天皇東征の時河内国孔舎衛で長髄彦と戦って利あらず、当国に廻幸せられ、長髄彦のために痛矢ぐしを被むられた五瀬の命が「負賤如之手乎死」と男健して崩じた男の水門は今の市内湊辺にあるという。 和歌山の地名の起源については、諸書その説を異にしているが、古くは若山と書し、又和歌山とも記したが元禄(1688)中に若山の文字に定め、後また和歌山に改めた。城地附近はもとの雑賀荘に属し、名草郡岡村、今治村、鷺の森、釘貫、徳田木、四日市、海部郡湊村、吹上等の村落が点在していたが、中央吹上の峯に城が築かれてから、漸次に開けて、村里の風を脱し、ここに和歌山の地名が初めて起り、天正13年岡山に城を築き秀長の居城とし後年和歌山の城と號す。 秀長岡山に築城したるは、此の地は紀の川口平野に位置して崛然隆起し、北に和泉山脈、南に藤白の連山があって、さながら屏障を列する如く態勢は地域に適していたからであろう。古昔有名なる名所吹上の浜の東にそばだつをもって吹上の峯と言い、玉吟家隆の和歌に「秋の世を吹上の峰の木枯に横雲しらむ山の端の月」とあるのがそれである。岩石突兀たる丘陵で遠くから望むとさながら猛虎伏臥する状があり、後年に至り虎伏山ともいう名を得たのであろう。