築城後の和歌山
天正13年豊臣秀吉当国を統一して弟秀長に附した時、この地が最も築城に好適するのを見て、みずから縄張を命じ、藤堂和泉守高虎、羽田長門守一庵法師普請を奉行して、急ぎに急いで工程を進めた結果年内に本丸、二の丸の土工を終ったと伝えられている。 翌14年1月から15年にかけ秀長の城代桑山修理亮重晴在城し、はじめて若山または、和歌山の城としたが、この時釘貫村を郭内にとり入れ、その人家を今の北町に移し、郭外伝法から今の築地まで、東西に堀川を開鑿して紀の川、大門川の水を連絡させ外濠とした。しかし浅野氏時代の修造で内堀、総堀、石垣など漸次に備わり、又徳川氏が入って元和7年(1621)城郭大改修が行われた。 徳川氏が、和歌山城に入封したのは元和5年8月13日であった。 同年夏将軍徳川秀忠は弟中納言頼宣以下諸侯を従え上落したが頼宣の傳、安藤道次を召し「紀伊国は南海に突出して西、阿淡を制し、北は京畿をひかえ東は和勢と連って、西南第1の要衝であるから至親の者に守らせたいと思う、中納言は少年であるがまことに其の人である。しかし駿府は父家康遺命の封国であるから、遺命に違うとて心をのこし、恨みを含まれるようでは国替の儀を行い難い汝よくこの意を諭せ」と直次に伝う、しかして道次其の旨を頼宣に伝えた。頼宣曰く「すでに一身を国家に委ねている、如何で駿府に眷戀しよう、謹んで台命を奉じ、上国、西国鎮守のこと随分駑鈍をつくさん」と復命、秀忠大いに悦び、7月15日浅野長晟を安芸、備後に移し、紀州に勢州の内を加えて555,000石を与えた。しかして、頼宣8月13日、安藤道次、水野重仲、久野宗成