特に5代吉宗は一般殖産奨励に意を用い殖林をすゝめ更に閑地利用として漆、楮、其他の有用樹種をも奨励し民業の扶植に努めたり。唯6代宗道の治世寛延の末年財政逼迫を救はんとし、時の勘行奉行の議を用い国内の松林を伐採せしかば、国内諸山赭禿となり長く民害を残したと言うも、概言すれば藩政時代を通じ山林は保護取締を厳にし植林を怠らざりしかば、むしろ現在政治の及ばざる好果を遣し、所謂業績の見るべきもの少からず。秋田、木曽の美林今に残るも之がためなり。而して各藩の林業政策は主眼を多く禁伐其他の消極的保護取締に置き積極的の造林其他森林の開発、事業の指導改善の跡少なく、本藩のに於ても右の範疇(はんちゅう)を出でざるも、尚歴代よく意を山林保護に用い産業の扶植助長に力めたる事績も亦尠からず。本藩は浅野幸長、長晟を経て元和5年徳川頼宣の封ぜらるゝ所となりたるものにして、南竜公頼宣は本藩の始祖にして藩治創業の明君と齊祖の往せし跡にして実に杣組の起源なり。後此杣組を移して、美濃、信濃の森林を伐出せしめんと云う。

2.紀州藩の山林制度

紀州藩の山林制度は其の時代に依りて多少の変遷異動を見るも、概ね勘定奉行所之を総管し、山方役所を設けて山方元役(2人又は3人)又は山奉行を置き、山林一切の事務を管掌せしめ、郡奉行、代官、大庄屋以下村人をして各郡の山林保護の任に当らしめ、毎年一回春季に大庄屋をして山林を巡視せしめ、過失あれば即ち夫々責任を負わした。 取締監守人としては山廻りを置き郡奉行の支配とし常に受持の山林を巡視せしむ。元禄9年子8