月の御触(ふれ)によれば口6郡は1群2人とあり、根元覚によれば、山廻りは42人にして、内27人は紀州領にあり。然るところ明治2年此の制を廃し、山林取締を各村に一任し村役人をして取締の法を講ぜしむ。寛永13年12月定めの奥熊野山御定書等によれば奥熊野在中にて百姓所持の山林にして開拓すべき処柴苅場、牛飼場、田畑の肥草場等適宜除外し相応の留林を作りて保護をなせり。其他口熊野、口6郡、勢州などにも留林、留木等の制を設けたり。留山には藩林あり、民林あり、種々の理由により保護すべき場所を定め之を布達し左の如き表札を掲げて一般に警した。
「此の山はやし置候條、松林は勿論下草にてもも一切刈切申間敷候、若し猥りに刈取候はば急度可申付者也」
又、留山には年限を定むるものあり、定めだるものありて、一定又村民の規約により或いは願出により留山を定むることあり、留藪の制も同一なるが多く竹藪等を称し、軍略上又は軍用公用に使用するを目的とせるが如し。
留木は一般に6木と称する松、杉、檜、槻、楠、栢の類にして厳重の保護を受け私有地たりとも之が伐採を禁ぜり、而して此の制は地方により又、時によりて一定せず、田辺領内にては安永5年更に椴、栂、栗、桜を加え天明3年には●、桐、柿を加えて13本となしたることあり「在方覚」によれば西熊野は楠、槻、栢の3種は留木なりしも其後杉、桧、松も留木を免ぜられ又、文化17年の触書によるに●の大木の伐採を禁ぜり、日高郡山中両組は6木の内松は後伐採を許され、又有田郡山保田組も願により銀30匁を納めて松、杉、檜の3木の伐採を許可せられたり。