人と談じ、大庄屋に届出で其の指図を受けて大庄屋は之を郡奉行に申告して留山に指定するを法とせり。寺社境内にある樹木は寺社奉行の支配に属し、若し、禁制の6木を伐採せんとするときは寺社奉行より勘定奉行に申告し、調査の上、止むを得だるものは松山奉行に命じ検分せしめ、然る後之が伐採を許可せりと言う。風物枯木等ありては其の下渡しを乞ふときは前同様調査の上之を下渡せり、而して重要なるものは家老に稟議せり。 明治2年4月藩政改革以後は亦林政も改正せらるゝ所多く、留山、留木の禁を解き唯定米山(山年貢を徴収せし山林)若しくは田畑、屋敷等の高附箇所に成長せるものゝ伐を制限せり。 歴代の藩主は前途の如く伐採を禁止制限して山林の保護に努めたるのみならず、他面造林に力を注ぎ土地を相して植付を怠らず、又?々令を出して諸種の制度を設けて植林を奨励せり。特に後世に至り運上銀の制等定まりて私有林の伐採を稍々自由にしたるを以て山林の荒廃するを憂い、仮令免許の山とても撫伐り(皆伐)を禁じ、其の伐採跡地には必ず苗木を植付しめ、以て森林の荒廃と人民の稼業の絶ゆるを防がしめたり。人民独力にて植付をなし難しとする所は諸他の便宜を与えて植付せしめ、又は官民共有(部分林の制)にて植付をなせり、之所謂証文植と称するものなり。正徳4年有徳川公(吉宗)御自草政事鏡の内にも(在々山々風烈シク無之所ヘハ杉植立候様ニ可申付候右植立木主ヘ半分被遣候証文相渡可申候、右植立ノ者致病死候テモ証文所持候ヘハ子孫者願出次第半分遣シ可申候随分出精可致候)(下略) 其他、林木の保護生長を図るため、枝打、すかし伐(間伐)等を怠らずなさしめ、根草、