然るに此等山林樹木は幕末より明治初年にかけて一大災厄に遭遇せり、即ち幕末の騒擾と維新の混乱之なり。 幕末国内多事、経費を要することすこぶる多く、加うるに本藩は長洲征伐に参加し之又巨額の費を要したれば、之等財源は手近の山林樹木に求むるの己むを得だるに至れり、之が為伐採せる林木実に莫大なりき。岩出街道、上方街道等にあり松木を尽く伐採せしも此時にして、今は唯和歌山市外街道に其一小部分を残留するに止まる。 一藩の危急存亡の際林政の如き又顧みる暇あろだりしは己むを得たる所なるべし。 明治維新後藩制打破に急なりし新政府は、数百年来の慣行制度を一朝に破壊して顧みだらんとす、人民又新政府の前途を明察すること能はず、愴慎として処すべき術を知らず、山林竹木を濫伐する者多く、先腎多年の努力をも之等時代の混乱に遭いて一朝にして水泡に帰せしめたるなり。 明治5年大蔵省布達を以て官林払下の令を出し更に8年地祖改正に伴て官民有林の区分を明らかにし所有関係の複雑なるもの等を明確にせり、然して旧制にたいしてその廃止は明らかなる法令なきも自然懈弛せるものなり、本県に於ても維新後其の弊甚しく官林の活伐頗る盛なリき、明治5年6月24日県令に 御留山之儀戸長、副戸長にて厳重取締可申之処近来夥く盗伐いたし候哉に相聞以の外の事に候此上無油断打廻り屹度取締可申尚、又盗伐致し居候を見付次第届出候ものには相応の褒美可遣候此旨末々迄無曳可相達事。 とあり以て当時の状を推知し得べし、然れども