此の覚書から推察するに江 戸の木材業者仲間に端を発した問屋と仲買の区別は全国に伝わり尚現在にまで至っているものと考察さる。従って後にのべる本市の木材業者も吉野材を扱う山元の業者を問屋に市中の業者を仲買と区別し、且つ問屋口銭が定められたのも皆江戸に於ける問屋と仲買の定めに端を発し而して此の時代から始まったものであろう。

  尚これより先、即ち問屋と仲買が区別されるまでは木材業には、「内仲間」「内分組合」「組」「講」などと呼ぶ私的な契約によって結ばれた仲間が存在したが、やがて幕府が江戸城の拡張や諸藩の築城並び改修、その他復旧土木費用等から諸藩の財政窮乏に落ち入りこの窮乏を救い藩の財政を確立するために開幕当時の自由営業を禁止し認可制度とし「座」及び「株」の制度を実施した。座制度は早く廃止されたが、株制度は幕末の頃まで存続した。

  此の株制度は営業上の特権を与える代償として冥加金や運上金を上納さしめ、これと引替えに株札を下附するという制度であった。

  株制度には「御免株」と「願株」の2種類があり、御免株は築城や藩の公用等について特に功労あるものに其の代償として無償で下附したもので、願株は一般のものに下附されるも、願株の中には増減が許されないシメ株と増減自由な不定株があって、シメ株は原則として冥加金を上納した。

  本市に於ても和歌山城築造に於て其の効により御免株を下附されたものあるも其の氏名は明らかでない。

  認可手続きは名主を通じ町年寄に申請し、更に町年寄より奉行所へ申請し公許をうかがうという方法であった。