一方経済は「米遣いの経済」と言われ藩政時代の初期には物資の交易も貨幣を使う事が少なく所領の大小も米の石高によったものであるが、慶長年間には幕府が金座、銀座を設け其後の寛永13年(1636)には寛永通宝が鋳造されるまでになった。また参覲交代制度は鋳貨の使用を促がし、江戸滞在中の必要品の購入には鋳貨をもって行なはれる様になった。

  然し、中世末から領域経済の拡充とともに兵農分離、戦法の変遷、武士の城下町移住などが進み、この事がやがて生産者と消費者の分離を促進さしめる結果となった。

問屋と仲買の起源  

 此の当時木材業は、問屋や仲買の区別はなく売買は自由であった。ところが需要が増大するにつれて、同業者も多くなり商域を巡る争いを見るに至った。其後慶長年間に於て山代金について東京の木材業者仲間が論争するところとなり、ついに訴訟沙汰におよぶ。訴訟の結果木材業は問屋と仲買に区別されるに至った。古書によると此の訴訟結果について次の如く記録されている。

  慶長11年午年ヨリ延宝元丑年迄68年間ハ問屋仲買ノ区別ナク商売相続致シ来リ候トコロ、山方ヘ遣シ候金子ノ儀ニ付、仲間デ論争ニオヨビ御公訴ニ相成リ候トコロ、向後山方ヲ勤メ候者ハ問屋ト相成リ府内ニ罷在リ御屋敷方相勤メ候者ハ仲買ト相成リ問屋ヘ夫々口銭差出スベキ旨仰セラレタタメ一統畏レ奉リ相互ニ問屋仲買定法相守リ睦マジク商売任ルベキ段、一札取替シタタメ延宝元丑年初メテ問屋ト仲買ト相分ケ候儀ニ御座候。

 と以上の如くある。