世のこれを称して我が郡林 業の模範と為すは蓋し座して一般林業の未だ進まざるのみ後の斯業に従う者其前人の遺業を継承し益々新興隆の道を講改し以て国力に資せんことを思わざるべけんや。初め貯木池購買の事起るや三郷組長上平豊吉、堂前佐七、山本源次郎奔走幹事す。是を以て議克く諧い北村宗四郎専ら土地購買の事に任じ遂に以て氏ここに至るを得たり。其の功労皆忘るべからざるなり、因て事の頴末と其氏名を併記し刻み著くと言う。 碑文の原書次頁の通り
建設碑文の内容は概要以上の通りである。此の貯木場が建設されて以来吉野材の流下が益々盛になると共に筏の収容や洪水による流失材の防止などに大いに役立ったことは勿論であるが一方当市の木材業者には却って不利な点が発生した。それは吉野材の流下は主に春と秋であったから此の時一時にぞって売っては値売りが出来ないので一度貯木場に収聯して市況と需給の調整を期することが貯木場建設目的の一つでもあったからである。
此の当時の流下量は筏の枚数にして北村商店は最高で年間凡そ1,000枚、次は桝屋(中村丈造)600枚、滝野500枚、五味300枚であった。尚明治末期に於ける貯木場並び所在地は次の通り。