(十一)筏水路の浚渫作業
筏流しのため毎年白露の頃洪水の憂ひなき時節を計り流筏に先立ち川路の浚渫をなす。其の方法は水路の岩石大なるものをフードルをもって破壊し小なる石は2本又は3本足の鍬をもってかき取り或いは又土台堰(台堰を枠で組み立て、これに横木を架し欄杭を植へ萱又は杉皮苞等のものを用う)を設置して水をためて巌石を水中に埋め或は筏の通ずる水途の両側に脇堰を作り水深を深からしめ又は水途一方に傾き岩石にふるる時は岩石の間に切張り堰を作り又一層水途の片落ちの処へ当て枠を設け此枠を材木をもって箱枠、流枠、丸枠の3種に分け水底の深浅と水勢の如何を計し其の大小の造り方を斟酌す、此の方法は概ね枝川に於てなすも吉野川本流飯貝以西紀の川筋に於ては川路稍平流にして岩石少なきも川巾広く水底に小石が多く殊に浅瀬多きが故えに大水の度毎に水路が変り此修繕は容易でなかった。此の浅瀬に石塚を積みて水を深からしめ水の片脇きにもるるを防き棚みをもって水の垣をなし又は堀板及ジヨレン等利用してこれを堀り此の堀りたる両側に杭を植へ此の最上に丸枠を据へここに水深標の竹を建て水路を示し筏流しの便をなす又翌年芒種の頃まで常に修繕を怠らざるよう注意す。
尚吉野川及び紀の川とも慶長年間(今より凡そ360年)までは川路浚渫の方法なかりしも紀の川以東吉野川筋漸やく川浚工事を起し寛永年間に下市を経て飯貝前に進み寛文元年東川領字滑りまで其後西河音無出合字別当淵に進め其頃万治3年より寛文3年迄4ヶ年間に大滝の岩石を切り割り而して高原前を経て井戸鍛冶屋淵に進む、当時此の川浚工事は容易の事業に非ず至る所奇石快