検査所開設の由来

 藩政時代から明治の初期にかけて吉野川を経て紀の川を下る筏は其の出材地(川上郷、黒滝、中庄、西奥郷、その他)によって飯貝検査所(吉野村大字飯貝)滑検査所(川上村大字東河芝)霊安寺検査所(南宇智村大字霊安寺)等のいずれかの検査を受けなければ紀の川に下る事は出来なかった。 抑々此の検査所は今を距ること凡そ370年前即ち文禄4年豊臣大閣の時代、代官藤田又右衛門をして材木口役と唱え之を取り立てるために初めて設けるものである。

この口役は慶長10年徳川家康公より吉野郡中に於て伐出したる材木の10分の1を取立て其の年貢として銀5貫440目を上納し其の余銀を百姓の助成金として下附せられたるも寛永14年代官小野惣右衛門の時に於て口役銀取立方を厳重に改正せらる。即ち口役銀取立目録を定め2間筏1床につき銀1匁目、3間筏1床につき銀2匁目とし其他雑木用角材駄物等にも取立らる。又紀州候在地の頃より岩出口に見取所を設け吉野から下る筏を検分し、これに口木を称し100本につき10本を取立つ。其の後これを改めて見取り1割と唱え木材の評価を以て銀10貫目につき1貫目(100円に付き10円)を取立らる。

延宝7年代官本田平八郎吉野郡各郷の実地検地の結果、吉野材木運上銀と称し銀5貫440目を川上郷と和田村、黒滝郷の寺戸村の水帳に各其の半額を記載す。