京橋の炭問屋、熊野屋栄介の両氏の共同によって東京より製材機を運んで、新宮堤防町に工場が設立された。これが本県に於ける機械挽製材工場の初まりである。続いて明治30年に秋田県に設立され其の翌31年には大阪市に設立された。大阪市への製材工場の設置は消費地としては初めてであった。これは明治14年日本鉄道会社が創立され、続いて同18年日本郵船の設立を見るに至り漸次海陸交通機関の発達を見るに伴って原木の輸送が容易になった為である。
次は明治32年の名古屋となっている。此の間、日清戦争の勃発によって、弾薬箱を中心に需要が富みに多くなり、続いて翌28年、戦勝による好景気によって木材相場は急上昇、このことは今迄逡巡していた機械挽製材を急に増加さしめる原因となるとともに一方、清韓2国を木材の輸出市場として重視する動きが愈々、濃くなり輸出を目的とする製材業の企画が盛んになるに至った。続いて明治38年の日露戦争と木材需要の増加により全国各地に機械挽製材が急速に増加を見るに至った。