取引銀行と金融機関の発達
明治時代に於て本市の木材業者は主に利用した金融機関は紀陽貯蓄(現在の紀陽銀行の前身)と四十三銀行・十五銀行などであった。然しながら当時の金融機関は未だ現在の様な発達を見ず、又木材業者も其の取扱額が僅少であったから殆んど自己資金により銀行に依存するものが皆無であったが、明治中期より取扱高が増加すると共に一方金融機関の発達を見るに至り銀行に依存する者が著増するに至った。爾来金融機関は木材業は言うまでもなく、一般諸産業と緊密な関係をもつに至り今日に至っている。従って参考のため金融機関の発達情況や明治時代に本市に設置された銀行について左に附記す。
藩政当時紀州藩には勘定奉公支配公金取扱所茶屋味の店と称するものが今の本町5丁目の南東角にあった。当時此の茶屋店なるものは公儀および紀州家御用呉服師で旗本に準ずる家格を持って居り、元和7年始祖南竜公頼宜より紀州1国の貢納金改め包方を命ぜられ歳入はすべて皆此の店に納入させ、歳出は覚書、今の手形の様な式で振り出し此の店で取りつけさせた。此の他に別に藩の金融調達の任にあたる為替組あり、又大小両替商があって銀行に類似した業を営み当時の金融需要に応じたが今日の銀行の如く広く公衆の預金を吸収したり貸付割引等の方法で流通を図るなどのことは行われなかった事は言うべくもない。蓋し此の事は封建時代の商工業は区々の1地方に限定せられかつ政治の方針や社会の風習はこれら営利事業を蔑視した結果、商工業の発展伸張せしめること難く、随って金融機関の発達も見なかったのである。