他の2神は和佐禰宜の高山、紀伊北野の古宮に鎮座したのである。しかしながら3神分祀の後も3社は各その神を中央に、他2神を左右に祀って、3神1所に在するのである。

神号は五十猛命(日本紀旧事記)有功神(日本紀旧事記)大屋毘古神(古事記旧事記)伊太祈曾神(続日本記)伊太杵曾神(和名抄)伊曾大神(神名式頭註)などさまざま見えるが、そのうち五十猛命はこの神の御稜威雄々しく猛く坐せしを称え奉った御名である。

また伊太祈曾は五十猛の五十をいの1音の仮命を用いて、五十猛を神多●(イタク)と訓み、有功神(イサオ)のいを韻(ヒビキ)の言として畧き、左乎を約めて曾とし、これを伊太祈に添えたもので、伊太祈曾と唱へるとは続風土記の所説である。祭祀は寛文記によると「9月15日の祭祀は丹生明神へ出仕えし後当社を拝す。馬66騎烏帽子上下を着し神前を渡る。永祚元年8月8日より同13日まで大風頃によりて禁中にて御トあり、当社へ御立願あらば大風静まるべき由奏するに因よりて、御立願ありしに、忽風静まりしより其報賽に国々より馬1騎宛渡りしを、中古根来寺(勅ありて荘中の旧家に流鏑馬を命ぜられ其子孫今に勤む」とあり。

中古烏羽上皇山東荘を根来寺に寄附せられてから、覚鑁上人荘内(明王寺)に伽藍を建てて矢田山傅法院と号し、伊太祈曾社の奥の院と称し、遊観所とするにいたり祭祀専ら仏家の式に変じた。寛永記には社前日参長日ノ講護摩朝葛勤行、及正五九月大般若経転読の事に今に懈怠なしとも見えている。後貞享4年(1687)復古して奥の院等を廃し、唯一に帰して正月15日卯杖祭、管粥の神事、6月30日茅輪祭9月15日秋季例祭渡御流