この様な情勢にかんがみ大正10年北海道に於て北洋材大会が開催され本市からは中谷長蔵、中西新七、小野田庄助氏の3名が出席した。その後大正12年の関東大震災復興の応急需要によって、安価な木材が大量に要求された。此の波にのって俄かに販路が拡大されたのに刺激され、出材は素早く増加して、遂に最盛出材年度には15,000,000石と言われる超大な移出量を見た。一方価格も関東大震災の影響により当初100石当り、520円が一般材価の高騰とともに、900円ないし1,000円と暴騰した。

 ところがその後北海道の大手業者や内地の木材商社も競って、樺太に進出したので移出量は益々増加、これと時を同じくして、米材の輸入も益々増加、これ等両材の大量輸移入が、内地市場を大々的に圧迫し、ついに相場が暴落するに至った。

和歌山北洋材検量所の設置

 相場が暴落するとともに、入荷市場に於ては丸太検量の〈押石〉などから荷主と市場荷受問屋との間に、丸太数量の検知について絶えず紛争が生じ、この検量問題は、独り荷主と市場問屋大手製材所の間にとどまらず、荷主と船会社の間にも押石紛争は絶えなかった。

 北洋材の移出期間は(積取可能期間)は毎年4月から10月末の半年間で、11月から翌年の5月までは、端境期(ハザカイキ)であるので、大量な松中丸太が、積取機関の半年間に各市場へ入荷するのであるから、如何に樺太丸太が安価であっても、需要量は入荷量にともなわず、市場は北洋松中丸太の大量ストックとなり、市況は不断に重圧が加えられ、標準材たる敷香(シスカ)生木6斗(5寸上尺3)100石建が、沖着350円、23流丸太にあっては、270円まで暴落した。