その上にこうなると市場側の検量の(押し)が益々強よくなるので、遂に荷主側は悲鳴をあげて、これが対策を講じる事となり荷主が連合して大阪、和歌山、清水、名古屋、東京の5大市場に荷主の木材検量所を設置する案が出るに至ったが当時、荷受け主は有力製材所、並に問屋であったので、かかる荷主側の一方的な検量所設置に真向から反対したために、大阪を除く他の市場の検量所の設置は不可能となったが、本市に於ては移入業者と荷受業者間のトラブルを解消するために設置するところとなり、昭和6年湊本町に和歌山北洋材検量所を設置し、所長に松島、事務主任に山本の両名と検量員に粉河、他数名を置き、検量業務を行うも、その後いくばくもなくして閉鎖す。
其の後、昭和6、7年頃より、南樺太露領北樺太及び沿海州を主とする北洋丸太の輸移入は再び増勢に転じ、愈々洪水の如く押しよせ、最盛期の昭和7、8年にはその数量15,000,000石と最高に達し各市場は北洋材の山となり、本市への移入量も移入後最高の1,600,000石に達した。
かかる情況の下に材価は底値知らずに日々低下し、産地市場は最悪の事態を呈するに至ったそこでこの対策として、樺太山林伐採事業商社と内地取扱業者とが相よって出材の調節、材価の安定等を協議し、これが統制機関として〈北洋材統制組合〉を結成し、本部を小樽に置き、各市場に支部を設置して材価の安定に努めた。その時の協議による評定価格は〈標準材敷香生木6斗廻材市場置場渡100石当り350円〉であった。然かし此の時の内地の各市場はストックの山で、荷主及び市場の扱問屋共にフトコロが苦しく、換金急ぎも多かったので標準価格350円をはるかに割るものが出た。