大正11年には英領北ボルネオのタワオに事業を開拓した三菱系の三菱農林企業会社が、セラヤと称するラワン材丸太を約1,000石輸入した。これがラワン丸太の最初の輸入である。其の大正12年末から同13年にかけて関東震災の復興用材として、復興局の希望と指導によって、製材品が大量に輸入されたが、これは産地輸出規格の欧米向の2級品即ちコモン級が多かったので、日本向としては不適で、利用価値は少くなく復興用材として輸入したものゝ頗る不評であった。そのため製品輸入は次第に減退し丸太輸入は増加した。この丸太輸入に先鞭をつけたのは、比律賓木材輸出会社(社長は中村汽船社長の中村清七氏)で大正13~14年頃より現地で伐採事業を開始し、自社のカシゲランを入れたのが南洋丸太材の大量輸入の初まりと言われている。このカシゲラ材は材質が堅かったので、挽材としてはともかく、ベニヤ資材としては全く歓迎されなかった様である。
ラワン材が日本に輸入された当初の輸出情況は地元比島人の伐出した丸太を買い集めて、それを日本に輸出するという情態であったが、比島政府から伐採権を獲得して伐採事業を行ない輸出する様になったのは大正13~4年頃からである。其の後南洋材の需要が盛んになるにつれて、伐採権を獲得し邦人の現地に於ける伐採事業が活発となり輸入も又増加するに至った。その主なるものには前記比律木材会社や武蔵野興業、石原産業、東洋拓殖、南洋林業会社などがあった。
此の当時の輸入量は年額平均60,000石余であったが、その後漸次増加に昭和7~8年頃には一気に170,000万石内外と激増するに至り、その後も需要の増大とともに増加の傾向を辿るも、支那事変の勃発、