本計画を紀の川改修の附帯工事とし国の直轄工事として同時に実施する運びとなった。
一方此の頃業界に於ては、北洋材の移入が盛んとなり貯木場の必要性を痛感するに至り、和歌山木材同業組合(組合長小野田庄助氏)に於ては貯木場設置を県当局に陳情するところとなり、大正15年12月の通常県会に於て漸く議決を見るに至った。ここに於て県当局は紀の川と和歌山港の改修工事によって、早晩移転の止むなきに迫っている西河岸町の移転を考慮し、貯木場の設置場所を土入川口としその周辺に製材工場要地を造成する事に決定し其後数年を経過した昭和9年末漸く完成を見ると共に、翌10年西河岸町一帯の殆んどの製材工場は同所に集団移転した。現在の背割堤は此の当時築堤されたものにして其後木材の繋留場所として使用されるに至った。
築港鼠島
湊御膳松から西河岸町に続いて製材工場が集団化した地域は鼠島である。大正9年に中谷長蔵、平野林平、小野田庄助氏等がよって鼠島(大和町)に約1万坪の貯木場と其の周辺に工場要地を造成して以来同地に工場が急速に増加した。鼠島に最も早く工場を建設したのは平野源次郎氏で貯木場完成直後の同9年である。これより先の明治44年に和中製材所が設立を見ているが同所は額椽の生産が主で製材所と言うよりもむしろ木工業所であったから、一般製材所の初りは大正9年である。
平野源次郎氏が設立して以来相次いで増加を見るに至り、大正末期には其の数20数工場に達し