続いて昭和の金融恐慌時代を迎え木材相場は大正初期の不況期同様の価格にまで暴落した。

 此の頃本市に於ては北洋材の製材が盛んに行なわれていたが、昭和3年から4年の価格は北洋材の4分板で坪60銭(1枚10銭)であった。

 金融恐慌による不況は、昭和6・7年頃まで続いたが其の後経済も漸く安定を見るに至り、価格も漸次上昇の気配に転じ、一方満州事変の勃発により昭和10年頃より市況は急速に活況をていし一般木材価格も又上昇したが特に国産材、杉桧の価格の値上がりが強く杉の2間の柱角が2円80銭(吉野材上物)にまで値上りした。此の値上りは、金融恐慌後の経済の安定と続く満州事変による需要の増大によるものであるが、特に国産材が大巾な値上りを見るに至った理由は、昭和8年樺太林政の改革によって、北洋材の移入が半減すると共に一方米材の入荷も減少しこれに変って国産材の需要が急速に高まったためである。此の頃本市の主なる製品は北洋材や米材から杉、桧の2間角と板類に変り殆んど大阪市に出荷した。尚当時杉と桧の価格は殆んど同類であった。これは当時桧の需要は比較的少なかった為である。尚此の頃の製品価格は一般に“木倍”と言われ原木価格の2倍を標準とす。続いて昭和12年支那事変が勃発、戦戦の拡大とともに民需材や公用材の需要が益々増大し、価格も日増しに上昇、値上りするも政府は此の値上りを抑制するために昭和15年ついに公定価格制度を実施し、ここに於て木材価格の値上りも一応停止するところとなった。

(注 当時本市に於ては製品価格も才を用いるも本誌では特に柱角は本をもって表示す)