(八)製材機と動力の変化

 本市に於ける製材機の移り変りを見ると、明治36年に円鋸が初めて設置され、続いて同40年に竪鋸が使用されるに至り、北洋材の入荷が盛んになった大正12、3年頃より竪鋸が急速に増加、一時その数8、90台の多きに達した。此の間米杉、米松の入荷により帯鋸盤が初めて設置されたのは大正8年である。その後帯鋸盤の普及により竪鋸が漸次減少、竪鋸は全く使用されなくなったのは、昭和15、6年頃である。 斯くの如く本市の製材機の歴史は比較的浅いが、吾が国に於ける製材機の歴史は非常に古く、丸鋸は幕末の頃ヨーロッパの軍事技術の導入と共に造兵機の一部として輸入され、民間の製材工場用として使用されたのが、明治8年で静岡がその初まりである。本県では、新宮市が最も古く、明治20年である。帯鋸盤は明治40年にドイツのキリヒナ社や米国のイーカン社などより輸入、竪鋸盤は英国のラムソン社より輸入された。斯様に当初の製材機は殆んどヨーロッパやアメリカから輸入されたものである。我が国で製材機が初めて製作されたのは、明治36年で三重県伊勢市の菊川鉄工所や亀崎鉄工所が丸鋸盤を制作したのが国産製材機の初まりである。

  竪鋸盤は、明治39年で秋田県能代市の秋田木材株式会社が製作、次ぎに帯鋸盤は明治43年に菊川鉄工所が製作し、その後大正7年に現在の富士製作所の前身である大阪製材機工作所が製作している。

  帯鋸盤は、明治43年に初めて製作されて以来、漸次改良が加えられ、薄鋸使用が初めて可能となり、