又高速運転も可能となった。此の時初めて送材車の送り装置がワイヤドラム式に改められ、且つブレーキ装置も下部鋸車に取付けられるに至った。薄鋸高速度帯鋸盤の出現により、輸入機は次第に駆逐されるとともに、国産の竪鋸盤も次第に姿を消すに至った。

 製材機の移り変りとともに、動力も又大きく変化した。明治から大正に於ける製材工場の多くは、水力若しくは蒸気力を使用した。 本市の製材工場に電力が初めて使用されたのは昭和初期からである。

  電力が一般産業用に使用されるまでの本市の発展過程を見ると、明治39年に垂井清右衛門、その他市内の有志が発起して畑屋敷松ヶ町に和歌山電灯株式会社を創設、翌30年7月から火力発電により、住宅用として市内一部地区に点灯した 動力種類

のが始めで、動力用の配電がなく点灯戸数僅か600戸、其後の明治38年6月に日高町で水力発電する和歌山水力電気株式会社が岡山町に創立され、大正11年6月に京阪電気鉄道株式会社和歌山支店が設置されるに及び、一般住宅用に供給され、昭和5年4月合同電気株式会社和歌山支店が開設されるに至り産業用動力に供給されるに至った。製材工場が一般に電力を用いるに至ったのは

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