材工場の業績は益々向上するに至った。

 尚、人的構成から見ると、此の頃の本市の製材業者は奈良県は大和から兵庫県は淡路島、県内では有田川から日高川流域の出身者が以外に多く、地元和歌山市内出身者は案外少くない。その点熊野新宮市を初め、古座、日置、田辺、日高、有田の主な産地の業者は殆んど地元出身者ばかりであるが、本市は前記の通り地元出身者は非常に少くない。これは、藩政から明治にかけて本市木材業の発展を基礎ずけた吉野材の伝統と歴史の流れと且つ、吉野材全盛時代に問屋や仲買商に勤めていた人々の多くは、地元以外の者にしてこれらの業者は、いづれも大正から昭和の初期にかけて各々独立し製材業を開業した為であるが、当時有力者といわれる業者のうち2、3の業者を除いて他の業者は殆んど地元以外の出身者である。

  この事実は、精神的要素から見て、本市の立地条件の良さやその他の優利性に更に拍車をかけ製材業の発展をもたらしたひとつの要因でもあり、他の産地に見られない特異性でもある。 而して此の流れは、昭和の近世にまで伝っている。