製品の輸送路としても多大の便益をもたらした。 陸送便の発達せぬ大正から昭和初期に於ける本市製材業の発展は需給面の立地条件もさる事ながら、むしろ此の内川にあるといっても過言ではない。 次に本市は、古くより建具の産地といわれ、300有余にのぼる木工業者や多くの小割製材所が存在し、製材工場の副産物、背板や廃材が他の産地よりもはるかに有利に処理された点である。 当時副産物の代金で労務賃金が足りるという有様であった。 この様に副産物の有利な処理とともに工場の収益率が非常に高く、従って原木価格は他の産地の製材業者よりも多少高値で買い求めても尚且つ充分採算がとれるという情態であった。 此の事は、本市への原木入荷を益々容易にならしめ生産量も又増加を見るに至った。
一方資金的に見ると、此の頃他の産地の製材業者の殆んどは、山林の買つけから初まって、伐採、搬出、製材と一貫作業を行っていた。従って多額の資金を必要としたが本市に於ては原木商と製材業者は各々分業化されていた為に自己の資金と製材能力に応じ適時、適量を入手する事が出来た。 即ち、工場の下の内川で必要に応じ1升買いが容易であった点である。故に一貫作業を営む他の産地の業者の様に、原木の手当に苦労する事もなければ、多額の資金をねかす必要もなく、資金と労力の総べてを本業の製材業に専念する事が出来た。この様な状態であった為に他力資本に依存する業者は比較的少なく自己資金による業者は殆んどであった。
この事は金利の低減から、やがて収益性の向上となり、企業の竪実性と企業間の信用を高め本市製