(二) 厚子(アツシ)と人力車  

 会いは せなんだか京橋辺で…… 厚子(アツシ)姿のいきな人! 此の歌は大正から昭和の初期にかけて、材木屋の全盛時代に丸の内花街で良くはやった歌である。当時の材木屋の服装はみな厚子で、厚子は材木屋の正服であった。冬は此の厚子に「カジリ」とか“大和コート”とか呼ぶ上着を着用したものである。又、乗物は人力車が此の当時の唯一の乗り物でダンナ方は、どこに行くにも大いに利用した。当時、和歌山の花街では西に丸の内(今の11番町一帯)と東では、新内(アロチ)があり、丸の内は材木屋のたまり場で新内はどちらかと言うとネルヤのたまり場であった。此の時代の本市の主な産業は材木屋とネルヤがぎゅうじて居り、それが東と西に分れ両者いずれも一等客の扱いをされたのも対照的であった。 此の頃京橋の北詰めに人力車のたまり場があり、何時も10数代の車夫が客待ちをしていた。 ある年の初午(ハツウマ)の日に各店の稲荷祭りの祝酒のあと、京橋から人力車数台を連ねて真昼間、築地盛り場の真中を通り、ネルヤの本陣新内のお茶屋にくりこんだところ、ネルヤの連中とはち合せ、ネルヤも材木屋もいささか酒の酔いが廻って居ったので、ここは材木屋の来るところではないとか何んとか言って、口論となり、お互い若気の至り、とんだ騒動を起こしたことがあるが、今想えば全く夢の様な話である。