土地、建物、機械設備に資本金全部を使いはたし、原木を買う金はなし、さりとて多額の借金をするほどの信用もなく、困り果てたあげく、きゅう余の一策として能代の主だった業者を組合員として賃挽組合をつくり、其の組合で木材を買入れて、自分の工場で賃挽をしたのが、賃挽の初まりである。  

こぼれ話

(一)震災で焼け板と間違えられた焼板

 大正12年9月1日、関東一円に突如大震災が起きた。此の復興用木材は全国、特に関西方面から多量に出荷された。 此の時、大阪商人のある問屋から焼板(北海松4分板を焼いたもの)を沢山送りつけた。ところが、東京で荷揚げするとき他の木材は横持ちするうちに殆んど売りつくされたが、どうしたことか此の焼板だけは売れるどころか、誰れも見向きもするものはない。そればかりか“なんとまあうまく焼けたものだなア”と江戸子は感心したり仇笑う様子であった。 この事がだんだん後になって判ってきたのでは、東京方面では焼板が不吉だと言って1枚も使わない習慣であることや、震災で焼けた板と間違えられた様子でもあった。 此の当時、和歌山では北洋材で盛んに焼板の製造が行われ、関西方面で板塀や側板用に主として焼板が使われ便利で長持ちすると言って、非常に重宝がられたものであるが“所かわれば品変る”のたとえで、喜ばれると思惑した焼板が置き場にも困ると言う仕末、震災の生んだ珍事が調査不充分の大失敗か、情報化時代の近頃では信じられない嘘の様な実話である。