のも此の頃である。
 当時岩出街道や和歌浦街道の松並木の殆んどが軍用材として伐採された。更に昭和19年から同20年にかけて戦局は愈々最終段階に突入し、全国の重要都市は相次いで空襲され、敗戦色は濃くなるに至った。
 一方全国の需要都市が相次いで空襲されるに至り、その補修用材などで、今までの計画軍用材にも増す応急木材の需要が増大するにいたり、統制法による配給機構は全く混乱に落ち入った。其の虚に乗じ軍用材としての指定寸法以外の一般製材品は実用規格を無視した分切れ品や、怪物材の様な製品が横行すると共に闇取引が盛に行われる様になった。
 斯くの如く戦局が末期に近ずくと、総産業基盤が混乱し、木材の生産事業も其の例にもれず半身不随に落ち入り、地木社に於ては折角強制勧奨によって伐採した木材は出材が困難となり、大量の木材が林内又は中間地に放置さられるという情態であった。其の後戦色は日増しに濃く昭和20年7月本市も大空襲をうけ市の大半と製材工場の殆んどを焼失かくて同年8月15日ついに悲劇の敗戦の日を迎えると共に地木社は設立後いくばくもなくして其の機能を喪失した。此の間地木社の事務所も発足当時の市内八番町から丸正百貨店3階に移転、更に昭和20年7月の空襲により同所から紀和駅前に焼け残った亀嘉商店の事務所を一時借用、此の空襲により社員2名が殉死、続いて事務所を農業会館に移転し同所に於て終戦を迎えるに至った。
 和歌山県地方木材(株)の組織と役員
取締役社長 初代 森 茂樹