す。当時物資は極度の欠乏の折柄にして工場建設に要するセメント、亜鉛板其の他建設資材の調達に日夜東奔西走したるも、かんじんの製材機の製作工場は殆んど全焼したるがため新機の製材機が入手不能にして戦災による焼却機を修理し使用する情態であった。
一方従業員も未だ復員者が少なくこの募集などにも多くの苦労を重ねるに至った。
この様な幾多の困難を克服して漸やく完成を見るに至った。
この5工場は戦災復興用材の生産や、戦災工場主の職場復帰など戦後の混乱期に於て、業界復興のため物心両面の安定に多大の貢献をしたものであるが、昭和23年4月設立当初の目的をほぼ達成したので、其の時点に於て和歌山製材株式会社に譲渡す。
和木商会の設立
一方此の間製材事業組合の設立を見ると同時に木材事業組合を解散し、昭和22年4月地木社の債権債務の精算その他残務の整理団体として、和木商会を設立し、中谷長蔵氏が其の任にあたり其の後和木商会は初期の目的を円滑に遂行し解散す。尚地木社の出資金(13,200,000円)の処理については株主に払戻す事にした。
下記は当時の和歌山木材事業組合並び同製材事業組合及び和木商会の役員である。
和歌山木材事業組合
役員
組合長 石井堅蔵
理事 中谷長蔵
〃 高田源之助
〃 中西義一