地木社の解散
前記の連合軍の指令によって日木社及び地木社が愈々解散するに至ったが、解散するに当り各地方に於て、最も問題になったものは、即時解散して精算すべきであるとの意見と、別に商事会社的なものを設立して地木社の資産と権利義務一切を継承して存続すべきであるとの意見とが対立したが此の点本県に於ては他県に見る様な意見の対立も見られず概ね次の様な方法をもって解散した。
和歌山木材事業組合の設立
当時残存せる県下の素材石数は凡そ500,000石、内和歌山地区は80,000石接収せる工場46工場であった。此の処理機関として当市では昭和21年12月和歌山木材事業組合を設立し、残存せる工場については接収価格により元の所有者に返還し、焼失せるものについては、評定委員の決定せる評価により、それぞれ補償し残存素材については住宅営団に其の大半を引渡し、その取扱代行者として当時和田組木材部代表堀良造氏を指名して、県下の木材250,000石を集荷せしめ、災害地の復興用材に供した。和歌山地区は県下でも被災激甚であったがために、工場の復興について特に県に強力な援助を要請し、其の指示と協力のもとに被災工場の協同復興を目的に、御殿地区に1号から5号迄の5工場(現在の和歌山製材㈱工場)の新設を決定した。
和歌山製材事業組合の設立
ところが、地木社解散後の処理機関である和歌山木材事業組合と復興用材を生産する製材業とは分離すべきであるとの見解から木材事業組合から製材業に関する業務を分離し昭和22年4月新に和歌山製材事業組合を設立し、工場の建設に着手