製材業と原木の入荷状況
内地材当時の製材
第2次大戦も終戦にせまった昭和20年7月の大空襲によって本市の製材工場は殆んど焼失した。当時の製材工場総数60数工場(約4,300馬力)そのうち地木社の直営工場として稼働せる工場20数工場、他の工場は休止していたがこれらの工場も懐滅的な打撃をうけた。
当時被災をまぬがれた工場は網屋町の加納製材所と新橋地区では花米製材所、雄松地区の太田栄次郎製材所、東河岸町の高田、竹原両製材所その他中の島地区の製亟工場2,3と御膳松地区の工場で焼け残った工場総数は僅か7,8工場に過ぎなかった。
一方残存せる素材は鼠島の軍用材集積所の約3,4万石と水軒川から市内各内川の2,3万石の総数凡そ6,7万石であったが、これらの素材も陸上の材は殆んど焼失、水面の材は焼け焦げ使いものにならないものが大半であった。かかる状態で終戦を迎え、製材工場の復興にとりかかったが、建設資材がなく焼け残ったトタンで屋根をふき、製材機は焼損せるものを応急修理して使用する有様であった。
斯様な悪条件を克服して漸く建設された工場は和歌山製材事業組合の製材工場にして戦後に於ける本市製材工場建設の第1歩である。此の工場は被災工場の協同復興を目的に御殿地区に1号から5号迄の5工場を新設、設備は円鋸数台と台車とテブル2台、現在の和歌山製材(株)の工場がそれである。当時戦災復興需要が焦眉の急をつげ政府は製