材工場の24時間制を督励する様な状態であった。此の間、他の業者も相次いで工場の建設や再建に着手、僅か1,2年の間に其の数40数工場に達したが、原木の入手には事のほか困難を極めると共に電力の供給事情が悪く、昼間は休み夜間操業するという様な状態が続いた。此の頃本市に入荷した原木は、紀の川流域から有田、日高、野上材や地木社の残材で殆んど県内材が主であった。当時未だ木材統制法が全廃される事なく県外移出が禁止されていたが、県内材のほかヤミルートによって一部吉野材や四国材の入荷を見た。其の後木材統制法が全廃され県外材の移入が自由になると共に、原木の入荷状態も変り、県内材のほか主に四国、中国、九州材の移入を見るに至った。当時の主なる原木商には、中長、石井、平野、植平、長谷、松庄、神木、保富、太田木材などあった。此の間製材工場数も急速に増加、木材統制法が全廃された昭和25年初頭には早くも下記の通りの工場の建設を見るに至る。
製材工場(昭和25年1月現在)
(一)湊御殿-湊地区 河口製材所
和歌山木材株式会社 丸三木材株式会社
和歌山製材株式会社 久保製材所
間藤製材所 昭和林業株式会社
太田製材所 村居製材所
住江製材所 花米製材所
藤田製材所 中枌製材所
森野製材所 山本進重郎商店
新橋製材所 花王石鹸製材部
同和木材工業株式会社 宮井製材所