(二)外材輸入後の製材業
工場設備の近代化
此の間昭和30年にソ連材が戦後初めて入荷。
爾来ソ連材ブームが凡そ4、5年間続く中に昭和34年に米材の初輸入を見るに至り其後米材輸入が年々増加するとともに、ソ連材や内地材から米材に転換せんとする気運が愈々高まるに至り、昭和38、9年頃より殆んどの業者が米材に転換するに至った。米材に転換すると同時に製材工場の設備の改善や、近代化計画がもたらされ、機械設備は円鋸から全自動送材車付帯鋸盤やワンマン自動送材車に切かへられ搬送施設はベルトコンベヤやチェンローラーによる流れ作業となり、その他フォークリフトやグリーンバーカーが導入されオートメ化と大型工場の時代が到来した。
工場が大型化するにつれ生産量は著るしく増加、内地材当時1ヶ月僅か600石から700石生産していた工場は最低3,000石から5,000石、中には10,000石から20,000石の大量生産工場も見え本市の1ヶ年の総生産は凡そ2,200,000石から2,300,000石と内地材当時の約3倍に激増す。
米栂オンリーの単一大量生産へ!
生産量が増加するにつれてコストの低減から殆んどの工場は米栂オンリーの単一大量生産を見るに至った。
一方工場の従業員は1工場当り20人から30人多き工場に於ては60人から70人へと増加す。
此の間販売先も内地材当時の関東中心から再び関西中心へと変り、其の出荷比率は関西60%、関東20%と終戦直後の内地材時代同様の状態となる。