方面を主力に関東から県内、うち阪神方面には全生産量の60%を出荷、次は関東の20%県内は10%、残余は京都から福井方面に出荷された。
輸送は当初国鉄の貨車輸送が主であったが貨車運賃が高くなるにつれて、海上輸送に変ったが、各工場との積合せが多く、ために製品の間違や品不足等から以外に手間がかかり、出荷後1ヶ月たって集金に行ってまだ荷が着いてないという様な状態であった。
其の後戦災復興需要の減少につれて昭和25、6年頃より販路を関西から関東に転換した。これは終戦直後から昭和25、6年頃までは関東も関西も戦災復興需要が盛んで、従って価格は関東も関西も殆んど格差は見られなかったが、戦災需要は一段落するにつれて、東京と関西市場との製品価格の格差が大きくなった事と東京に於ける2間角の需要は盛んであった為めである。
当時丈角は田辺2間角は和歌山といずれも大いに名声を高くしたが然し一方ドブ角の悪名を高くしたのも此の頃からである。
 販路を関西から関東へ!
 尚東京に最も早く進出したのは山本進重郎商店で昭和24年である。
続いて翌昭和25年ひのき会の一行11名が、東京木材問屋組合を訪れ、同事務所に於て木場の有力問屋業者と懇談の結果杉桧製品の多量の成約を見、爾来東京に出荷する業者は年々増加、昭和28、9年頃には、関東60%関西20%と逆転、此の様な情勢が数年続き、終戦直後から昭和34、5年頃まで杉2間角の全盛時代を持続した。