の立場にあり、個人では石井と太田が1、2を競い、清水が一時をその後に続いた太田、清水はついに閉鎖の憂目を見るに至った。
其後、我国の木材需要の激増につれて米材が市場性を確立するに至り、輸入量は年々増加、中でも昭和36年の木材価格緊急安定対策後は急速に増加、同年末の輸入量は凡そ16万立方メートルと輸入当初(昭和33年17,000立方メートル)から僅か3ケ年の間10倍の激増を見るに至った。
此の間輸入量の激増とともに、樹種も米栂丸太の他米杉、米松、米桧、米ヒバ、ノーブル、スプルースその他多種にわたり、このうち米栂、米松は主として一般建築用材に、米桧は高級建築内装用に、米ヒバは枕木に、米杉は定木とフスマ材に、スプルースは建具材に、ノーブルは建具や建築材等に広く使用されている。
米材専用船の就航
尚、米材輸入が盛んになるにつれて、運賃のコストダウン等の事情から木材専用船の造船を開始、昭和38年1月安宅産業が初めて専用船イースタン・サクラ丸の建造をきっかけに各商社は競って専用船を建造するところとなり、一時は其の数、120数隻に達した。
当市に専用船が初めて入港したのは、昭和38年6月9日で三菱商事の”あずまや丸”がその第1船である。専用船の初航海とあって、同船の荷受主、山本進重郎商店と宮本木材工業の両社共催によって、経済センターに於て盛大な祝賀会を開催す。専用船就航後、輸入量は益々激増。翌39年には、約31万立方メートルと昭和36年の緊急安定対策当時に比較すると凡そ倍増、その後は年々増加、