画を断行した和歌山木協の山口平内専務は当時次の様に語っていた。<製材工場として必要な水面が用地に接続することと、完成の上は114口に区画せねばならぬ難問題と、土地を比較的公平に分割したい為の苦肉の策が思いついた事柄で、この事は充分満足できたが、さて護岸の築堤に280,000,000が必要ということで大きなショックを受けた。
 このために貯木水面が狭くならないよう又土地の買受値段が高くならないよう、何とか良策がないものかと考えた末結局貯木場西護岸を沖へ出して水面を広くすることとし、北部のつけ根で70メートル西へ出し水面8,000坪を増したので、水面は予定通り確保でき、その上へ買受土地も64,000坪から71,000坪と7,000坪が増加し、且つ工場団地では工場と工場の中間に11メートルの製品輸送路を敷設し貯木場に直結した櫛型溝水面より原木を引き揚げ製材して、トラックで輸送路を通じて運搬することができるよう便利な方法をとり、工場敷地の前面水面は占有水面として、その工場は、自由に使用し得るなど、櫛型土地のもたらした大きな収穫であったと思う。中途であったが、製材用地としての埋立を、櫛型に造成したことが利用度に於て格段の差のある事を思って此の方法に変更した事が今になって考えると非常に良かったと思う…>と以上の様に語っていた。
<昭和42年3月完成>
 以上は和歌山木材港並び貯木場、工場用地、竣工までの状態であるが昭和38年12月7日工事に着工して以来4年有余の才月と30数億円の巨費を投じ昭和42年3月完成、現地で関係者多数を招待し盛大な竣工式を挙行、ここに業界積年待望の貯木場がついに完成すると共に、当和歌山木材業界は全国屈指の外材の集産地として、更に製材工業地帯として飛躍的な発展を見るに至った。