町奉行町にあり仕入方役所は湊紺屋町にあり町方蔵、砂糖方、舟手所は伝法にあり、舟蔵は湊加納町および伝法にあり、米蔵は内郭、湊紺屋町、伝法等に散在し、習武場は岡山に牢獄は岡の谷に舟改所は湊下の町浜に、町会所は雑賀町湊会所は久保町浜にあり、時の鐘は岡山と本町5丁目にあり、而して市中に於ける宏壮なる建築は水野、安藤両家(丸の内)および三浦長門(丸の内)久野丹波守(小松原通1丁目)等大夫重臣の邸宅、老臣の下屋敷、寺院の類であった。 しかるに、明治維新の変革は全く旧制を破壊し、500,000ポンドの城下の壮麗を根本から覆滅して、社寺、衰微し、士邸荒廃して廃墟と化し、桑園麦圃と変じ、士族また多く離散流落した。
明治維新の改革
明治元年(1898)正月14日、紀尾水3藩附属5家の輩、以後藩屏の列たるべしとの朝令があり、紀藩では安水二家がその附庸を離れるに至ったが、2月さらに諸藩を制して草高400,000石以上大藩400,000石以下100,000石以上を中藩100,000石以下を小藩と定め、微士、貢士の制を設けて下級の議事官とした。微士は朝廷の召人で藩に関係することが少ないが、貢士は藩論を代表する議事官で、その進退は藩主に一任し定員大藩3名、中藩2名、小藩1名あって年限がない。この時紀藩が選出した最初の貢士は横井鉄叟、津田兵弥、本居中衛の3名であった。ついで10月従来旧幕府から諸大夫を受領していた家臣の位記口宣案を返上した。
これより先、明治元年4月諸藩国政を改革して一新の基本を立つべしとの令があり、引つづき10月府藩県3治に帰るべしと仰出らるるにおよび、紀藩は津田又太郎を挙用して藩制改革に専任させ、