2年2月英断をもって藩主家禄を領知高20分1(凡そ現米10,000石)に限定、余は全て藩国の用度に宛てることとし、家老以下家臣全部の俸禄を収めて無役高と定め、従前知高550石以上の者は全て高10石に付苞1俵ずつ、同550石以下切米25石までの者には均しく同50俵を給し、切米25石以下はこれまで通りとした。
而して政治府、公用局、軍務局、会計局、刑法局、民生局を設けて政治府に執政、参政各局に知局事、判局事を置き別に学政を執る職として学習館知局事、判館事、および藩家々事に服する家知事、家判事の職を置いた。
その任用は士庶民、貴賤を論ぜず、都鄙有才の者はすべてその選にあたるものとし、広く人才登用の途をひらき、門閥格禄の流弊を一掃したが、同時にこの時から無役の藩士に市在住居、農工商営業を其の意に任せて許可するなど、この改革はすこぶる時人の呆然たらざるを得なかったもので、天下に率先して維新の実績をあげ、大いに紀藩の名声を高からしめた。朝廷其の効を奏し(皇国御維新の目的を立て、、郡県の体裁を似て藩制改革候段、叡感被思召候)と褒章を賜はった。後年津田又太郎ご朝廷に召されたのは、この改革で認められたためであった。
また、此の年薩長土肥の4藩率先して封土私有を非とし、政令を一途に帰せしめんとして版籍奉還を乞い、270の列藩これに倣った。茂承もまた2月(惟うに王政復古の実、まことに茲にあり、故に臣亦謹んで版籍を上らんとす、伏して天裁を待つ)と奏請したが、6月に至って朝廷これを許し、公卿諸侯を華族に列し、新たに府藩県一致の制を立てて旧藩主を仮に藩知事とし、藩内文