武の諸政を掌らせた。ついで7月津田又太郎和歌山藩大参事に任ぜらる。 明治3年9月さきに定めたる藩制を改めて150,000石以上を大藩、150,000石以下50,000石以上を中藩、50,000石以下10,000石以上を小藩とし、各藩知事の朝集を3年1回として、正権大参事の内1名を滞京させ、議員として衆議院に出席させることにしたが、4年2月知事の家禄を制して、各藩5ヶ年平均現石の10分の1と定めた。即ち、和歌山の領知高は従来の555,000石中、藩屏に列せしめえられた安水両家の釆地を除いた残高481,200石で、その5ヶ年平均現石274,590余石であったから、知事茂承の家禄は27,459石であった。

廃藩置県
同4年7月、さきに府藩県一致の政を行なうたが因襲の久しきその名あってその実挙らず、よって更に廃藩置県の詔命を下し、各藩知事を諭してその職を罷めさせた。ここに於て和歌山藩を和歌山県とし、藩庁を県庁と改称、藩知事茂承退いて仮に旧大小参事に権の事務を執らせた。 この時旧紀州藩領は、和歌山、田辺、新宮の三県に、旧高野寺領は五条、堺両県に分轄せられたが、4年11月和歌山県は田辺、新宮2県を併合し、伊勢領を度会、三重の2県に、大和領を五条県に分属させた。 翌5年さらに五条、堺、2県から伊都、那賀両郡の旧高野寺領を収めると共に、南北牟?郡を度会県の管轄に移し、もって現今の和歌山県の行政区画を形成した。 此の年の9月旧藩知事徳川茂承命により東京に移住したが、頼宣の始封元和五年(1619)か