ら明治4年まで紀州徳川氏がこの地を治したのは実に253年であった。
和歌山区政
明治2年2月和歌山藩は従前の市町役人のうち町湊大年寄を廃し、貴属地に士族卒肝煎を置き、市井を三組に分割して、毎組1名ないし2名の市長(役料米20俵藩費)を任命したが、3年5月毎町年奇を罷め2ヶ毎に町役人1名を配置して市長に属せしめた。ついで4年6月戸籍法施行により改めて市井全部を29小区に分ち各小区に町役人1名を置き、市長に戸長を兼ねさせ、町役人に副戸長を兼ねさせた。同5年4月再び区画を改正し、貫属地をも含めて各草郡第一区(丸の内並に広瀬一円車阪から新堀1丁目まで)同第2区(内町並に東西宇治一円)同第3区(新町並に北新町一円、嘉家作り丁)海部郡第1区(湊一円但し、南は湊通丁2丁目、3丁目、小松原通1丁目)同第2区(吹上一円但し、新堀1丁目を除き北は小松原通2丁目)以上の5区とし市長、士族、卒、肝煎および町役人を廃して各区に、1区役所を設置、翌月大小区画制に改めて各草郡を第1大区、海部郡を第2大区としたが、同7年9月各区役所の名称を区会議所と改めた。
其の後、明治12年1月郡区改正あり、市井5小区は海部、名草両群から分離し、和歌山区として独立せしめられ、翌2月和歌山区役所を仮に県庁内に開設し渡辺鉄心区長に任命さる。
市制施行
明治21年4月法律第1号をもって市制町村制の公布あり、和歌山区に市制を施行せられることとなり、5月、小山漸、加藤杲、志賀楠之助、長谷川五郎等市制施行準備取調委員を命ぜられたが、