山市の地は、北に宇治、東南に岡の里がありその南に雑賀野、和歌浦、和歌があって此の一廓は、北と東に入海をひかえ本陸を離れた1つの島嶼であった。そして宇治の西北河口を紀の水門と言い水門を隔てゝ徳勒津、有真あり徳勒津の南に太田、津泰、大宅(オオヤケ)あり大宅の東南に亀山あり、亀山の東南に江南、津田浦あり、江南、津田浦は海浜の船着の地であった。
其の後本島の西海水漸次に退き落ちて浜面広濶となり風激しく浜砂を吹き上げ始めて吹き上げの名起る。関白頼通公永承3年(1084年)の記に(如登天山似向●嶺)とあるのを見ると地に高低があったのであろう。それよりやゝ後世の歌に、和歌の浦入江、玉津島入江など詠ずるのが少なくないがこれは、東方布引、紀三井寺、三葛の辺から玉津島の北、今の五百羅漢辺寺までを言う。
愛宕山、御坊山は中古尚海中の一小島で共に、西方ふもとに波されの岩があり、高松から井原町大出子辺に浜沿(ハマソイ)の字が遺っているのを見ても昔の地形を察する事が出来る。又、此の頃紀之川河道南に遷って有真、徳勒津の地一時に河中に没したがやがて河道埋れて老人島、松島、中之島の中洲が現出し、宇治以西も又、年々川から土砂を流出し海面から風浪をゆり動かして所々に砂土を集め自然に遠浅となって北島、鵜の島、狐島、前島、和田浜などが出来た。うち和田浜は明応の津波で滅亡した。
かくして、磯脇以来の地漸次海から遠ざかったが、梅原大年神社境内の岩の波されの跡あり、