大納言公任郷集、和歌の浦遊覧の和歌の端書に(笠木〈今の孝子峠〉より越えて言々、その夜は岸つらに宿りて)ともあり中古は栄谷の辺、尚川すそ入海の岸であった。又、東方も大宅から南の入海次第に埋没して中島起り、南に北出島、現出し陸地となる、これが中古の和歌山の地形である。
其後、松島、老人島など河南の本陸に接し新在家、吉田、新内、の村落が出来、北島、孤島は河北に中の島は宇治に愛宕山は岡にそれぞれ接続して往古の入海は紀之川の支流の観を呈するに至ったが、川筋の有本から南に岐れるものが中の島を経て岡の東で広き瀬となり、岡の故、地一時河中に没したらしい、今の広瀬の地は後堤を築き南流を防いで始めて陸となったもので近世まで地を掘ると葦の根多く出る所や井戸水鹹味を帯びる所があったと言う。
今の大門川は古昔、紀の川河道の遣ったものである。後海水又、南に退いて塩道、宇須、塩屋、中島、杭の瀬、田尻、小雑賀の村々現はれ皆塩浜あって、塩を焼いて生活したが海潮更らに退いて三葛、塩浜が起った。紀三井寺の西が後村の南州浜となり漁人皆、出島浦に集まった。又、和歌の浦は往昔から漁を業としたが、後これも出島浦に集まった。関白頼通公の和歌の浦遊覧記によると永承(1046)の頃まで入海であったが東方に堤を築いてはじめて田畑塩浜となり西北、和田浜の故地も又、陸となって松江と言う。この辺の地をうがっと浮石貝殻の類が多く出てくるのもそれ故である。
北西では磯の浦、川口何時となくふさがり松は浜の長く南北に連るをもって二里ヶ浜と言う、海岸に添って南東の浜を小二里と言ったが海水益々