同31年に西脇野、安原村、東山東村、西山東村、同33年に有功村、直川村、川永村、小倉村、同年7月加太町、同34年山口村、紀伊村を市域に編入し現在の行政区画の形成を見るに至った。

地名の由来 (註・木材業と関連性の深い地名) (湊) 紀之川の河口に位置するをもって此の名あるも古事記に紀国男水門とあり又、日本書紀には雄の水門、神功紀、広神紀には紀の水門とある。紀の水門は広く此の辺から西方は磯脇までの入江を言い男の水門は専ぱら此の地を言う。後世海水西に退き落ちて平地となり人家密集するところ早く市部に編入せられるも、田畑多き北西部及び紀之川対岸を海部郡湊村と称し当時湊村には御膳松、今福、砂田、入屋敷、中洲、鼠島、薬種畑、湊御殿、土佐殿町、舟津、砂山、桃畠、東の坪、中の坪、北の坪、本宮、三間割、四間割、葭原、新堤、西の坪、青岸などがあり、その面積広く御膳松、中洲は紀の川の対岸にあるため、これを外浜と言い往時は和田浜の大聚落のあった所である。

湊御殿 徳川最初の藩主頼宣が入封して以来、築地橋から魁橋にいたる間に藩主の御殿があり、和歌山城から西へ一直線のところで今の県庁前への小松原通り南裏に通りがありこれを(お通り丁)と称していた。つまり城から御殿へ通う道であったので湊御殿の名が残って居る。

湊御膳松紀の川口の河口に位置し、紀州藩祖南竜公頼宣この土地で食膳を供した事があるので此の名が残る。

湊薬種畑 紀州藩の薬草園があったので薬種畑と言う。