中の島 往昔、此の辺一帯は入海の水底であったが、後海潮南に退いて洲渚を生じたので中の島の名起る。慶長1596年頃まで村中になお塩浜あり天保1830年頃その住民市域の戸籍に入いり土地のみ中之島村領として土税を納めたと言う。
手平 此の地域は古郷名を大宅(オオヤケ)と言い上古公税を蔵める倉を所々に設け屯倉(ミヤケ)と言ったがその後、元和中(1615年)手(て)の平(ひら)村と訓し後手平村となる。古来は熊野街道の要衝として繁唱した。
宇須 往昔は、南方塩屋からこの辺一面は海であったが、後入江の海水南に退き落ちて一条の雑賀川となったこと祥(あき)らかに地形の変形である。現に浜沿いの地名遣っている。又、宇須は昔は(宇津とも書く)名も宇須即ち内の義で海川など外にあり、その内にある意と説くものもあるが、紀伊風土紀によると古昔は繁唱した土地で宇須千軒の俚言があるがその後、すいびして天保(1803年)時代は戸数わずか70戸にすぎず、藩の小史蛋徒の居地であった。そのうち井原町は慶長年間若州井原郷の人次第に移住して井原町となる。
小雑賀 もと海部郡雑賀荘に居す。元来、雑賀荘の諸村は殆んど、雑賀川以西にあったが、ひとり此の地のみ川東にあるので此の名称がある。当時、入海に面して塩浜多く宇須との間に渡船を通じたが、明治11年今の如く橋を架した。
久保、小野町 久保町は一名、公方町と呼び公家方が居住したので此の名が起こる。この町に接して浄土宗寺院海善時があり、開山喬海上人は将軍足利義値公の一族であるため、その緑故で公家方が阿波から当国に来たり。この辺にしばらく滞