総説

由来吾が国の木材業の多くは森林資源と其の河川の河口に発達を見た。陸送の便、未だ発達せざる当時河川は唯一の輸送路であったからである。本市の木材業も又吉野川流域の鬱蒼たる森林資源と市の中央部を流れる紀の川の河口に発達を見た。紀の川は其の源を大台ケ原に発し、河川の延長55キロ水量豊かにして下流は和歌山港に注ぎ、藩時は勢州領貢米を輸送する千石船や吉野地方への運漕船が頻繁に上下した。

 上流吉野川は延長凡そ60キロ。枝川多く巨岸奇石絶壁を為し、川巾狭隘なるも山岳重畳全山緑に包まれ蓄積量は吾が国でも最も豊富であった。往時の林相はどの程度であったかは詳びらかではないが、一般に杉が少なく桧が多く、明治時代に伐採した樹令から判断するに足利時代からすでに植林が行なわれていた。

  これら吉野材のうち本市に最も多く流下したのは川上郷、小川郷、中荘郷、黒滝郷、西奥郷の5郷の産にして而して其の歴史は遠く今より凡そ300有余年の昔にさかのぼる。

  文録4年豊臣秀吉の時代、代官藤田又右衛門をして吉野川から紀の川を下る木材に口役と唱へ口役銀を取立てる史実から見てすでに此の頃より吉野材が流下していたものと解される。

 此の口役銀は、藩政当時各藩の唯一の財源で、吉野郡中に於ては伐出したる材木の10分の1を取立て、其の年貢として銀5貫、440匁目を上納せしめ其の余銀は百姓の助成金として下附した。口役銀を取立てるために吉野地方には飯貝検査所(吉野村大字飯貝)滑検査所(川上村大字東河芝)