霊安寺検査所(南宇智村大字霊安寺)その他があり出材地によって其のいずれかの検査所の検査を受けなければ出材する事が出来なかった。又、紀州公在城の頃より岩出ロ見取所(現在那賀郡岩出町)を設けロ木と称し紀の川を下る木材100本につき10本を取立てたが、此のロ役銀制度は其後度々改正せられ、明治維新の改革によって全国一斉に廃止せられた。

 此の頃本市にはすでに木材業をいとなむ者があり、其の最も古きは中村丈造にして其の祖先は300年以前開業せりと言う、然かしながら藩政時代に於ける一般商工業は、藩財政の運用を充すための制度に過ぎなかったから座及び株の専売制を設け木材業を開業せんとする者は其の藩の認可を必要とし、一般に自由営業を禁止し後にはその特権に対する報償として運上冥加金を徴収し、藩財用に利するも藩財政が窮迫すると愈々此の傾向を助長した。

  斯様な制度であったがために維新前本市に於て木材業を開業せる者は前記中村丈造の他、僅か2,3の業者に過ぎなかったが明治維新の改革によって職業の自由を得ると共に、株制度や認可制が撤廃され本市では木材業を開業せんとする者が相次いで増加を見ると共に、一方吉野材はロ役銀の廃止によって流下量が急速に増加し、ここに於て本市は吉野材の一大集散地として発展を見るに至った。

  当時吉野材の流下量は年間凡そ50万石から60万石の大きにのぼり、これらの木材は筏にて下り、其の所要日数は上流吉野川を発して紀の川口に到着するに十数日の多日を要した。

 而して該吉野材は紀の川口で筏問屋と仲買商が それぞれ下見取引をし、